レポート | ・ 曽木発電所 | ![]() |
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- 曽木発電所 ~ 日本の化学工業発祥のきっかけとなった発電所 - |
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旭化成株式会社と積水化学工業株式会社という、日本の化学工業界を代表する2つのトップランナーが日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ株式会社、事業会社としてはJNC)を前身とする会社だということをご存知だろうか。また、大手化学メーカーの信越化学工業株式会社も日本窒素肥料株式会社と長野県の電力会社信濃電気(後の長野電気)の合弁会社として長野市に設立された会社である。 日本窒素肥料株式会社のスタートは、熊本県と県境を接する鹿児島県伊佐市(旧大口市)の曽木に建設された水力発電所だった。今でもその発電所の遺構を見ることができる。いつもは鶴田ダムのダム湖の水底に沈んでいるが、梅雨期に入ってダム湖の水位を調整するためにダムの水が放出される6月から9月の間その姿を地上に現わす。 遺構といっても外壁がわずかに残って立っているだけである。そのセピア色に古ぼけた佇まいは、ヨーロッパの中世の古城に似た印象を与える。そして、それがかつての水力発電所の遺構だと知ると、盛衰のロマンと哀愁を感じずにはいられない。 1.野口遵と日窒コンツェルン 〝電気化学工業の父〟あるいは〝近代化学の父〟と呼ばれた野口遵は、1873年(明治6年)に石川県の金沢に生まれた。東京帝国大学電気工学科を卒業後、東京電灯会社(現在の東京電力の前身)の依頼で渡米した後、1906年(明治39年)に鹿児島県伊佐郡大口村(現・伊佐市大口)に曽木電気株式会社を設立して発電事業を始めた。 1907年(明治40年)、曽木の滝の流量と落差を利用した発電所が、滝のすぐ下に完成した。曽木発電所は、伊佐市大口にあった牛尾鉱山の動力を確保するために建設された発電所だったが、牛尾鉱山の電力使用量が予想より少なく、近郊町村の電灯用に供給しても800㎾の電力の半分が余ってしまい、発電事業の経営も思わしくなかった。 そこで、野口は、カーバイド製造の第一人者だった藤山常一を招き、熊本県葦北郡水俣村(現水俣市)に日本カーバイド商会を設立し、曽木電気の余剰電力でカーバイド(漁船や自転車の点灯燃料)の製造を始めた。従業員45人の小さな工場だった。 翌1908年(明治41年)には、曽木電気と日本カーバイド商会を合併し、日本窒素肥料株式会社を設立した。日本窒素肥料株式会社は、野口が空中窒素固定法という画期的な方法で化学肥料硫安の製造を始めてから拡大してゆく。 1921年(大正10年)に、野口は、イタリアのカザレー博士が発明したカザレー式アンモニア合成法の特許権を獲得し、水俣の工場内に新工場を建設しようとしたが、地元民の反対にあう。そこで、宮崎県延岡に新工場を建てることになった。延岡を選んだのは、五ヶ瀬川や大瀬川の豊富な水源を利用した水力発電が可能だったこと、加えて広大な土地の確保が可能だったことによる。1923年(大正12年)に、カザレー博士の出席のもと日本窒素肥料株式会社延岡工場が操業を開始した。野口は合成硫安の製造を始める一方、ベンベルグ人絹を製造、経営の多角化をはかる。
野口は水俣工場、延岡工場を拡張しながら、朝鮮にも進出し、電源開発と大規模硫安製造工場の建設を行った。12箇所の発電所で電源を確保し、興南、永安、本宮の3つの工場では主に合成アンモニアを原料にした硫安、硫燐安などの肥料が製造されたが、他にも油脂、石炭低温乾留、アルカリ、カーバイド、火薬の製造、金属精錬など多角的な化学製品の生産が展開された。 朝鮮における従業員数は4万5千人に及び、設備能力では水電解設備が世界第1位、硫安の年産能力が世界第3位と、世界屈指の化学コンビナートに成長した。 日本窒素肥料株式会社はますます巨大化し、水俣、延岡、朝鮮の興南を拠点に、日本窒素肥料株式会社を中核とする新興財閥いわゆる日窒コンツェルンを形成、1941年(昭和16年)当時で直系子会社は30社に及んだ。コンツェルンとは、資本的な繋がりを通じて複数の企業が結び付いた、実質的に一つの企業グループを形成している状態を指す。
このように事業拡大を続けていった日本窒素肥料株式会社だったが、1945年(昭和20年)の敗戦により、主要拠点であった朝鮮の資産など全財産の8割を喪失するとともに、戦後の財閥解体令により、1949年(昭和24年)に解散し、水俣工場が新日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ株式会社)に、延岡工場が旭化成工業株式会社(現在の旭化成株式会社)に、プラスチック事業関連が積水産業株式会社(現在の積水化学工業株式会社)になって生まれ変わった。 こうして、出力800㎾の曽木発電所からスタートした日本窒素肥料株式会社は、旭化成株式会社や積水化学工業株式会社といった、日本化学工業界を代表するトップランナーを輩出した。曽木発電所が〝日本の化学工業発祥のきっかけとなった発電所〟といわれるゆえんである。 野口遵が曽木発電所をつくり、その余った電力を活用するため、水俣に日本カーバイド商会を設立することがなかったら、わが国の化学工業の発展も違ったものになっていたことであろう。 2.曽木発電所遺構 曽木の滝のすぐ下に建設された出力 800㎾の第一発電所に代わり、曽木電気と日本カーバイド商会が合併し日本窒素肥料株式会社が設立された年の翌1909年(明治42年)には滝の約1.5㎞下流に出力6700㎾の第二発電所が完成した。 レンガ造りの洋風建築の発電所もさることながら、ドイツのシーメンス社製の発電機の導入や5つのトンネルや水路橋を持つ約1.5㎞の導水路建設など、一大事業であったため、全国から技術者や作業員が集まり、下ノ木場集落は再び活気に包まれた。ダムの水が放出される6月から9月の間中世ヨーロッパの古城に似た姿を現わす曽木発電所遺構は、この第二発電所の遺構である。
遺構は、その歴史的な価値が認められ、国の登録有形文化財に指定され、近代化産業遺産に認定されているが、2021年(令和3年)の豪雨で一部が倒壊してしまった。倒壊して散らばったレンガの塊や欠片は大型クレーン作業によって回収され、現在保管されている。写真(2025年4月撮影)に写っている遺構うしろの鉄板のプラットホームは、クレーン作業のための足場である。 崩壊した部分は、登録有形文化財としての価値を損なわないよう、元の状態に復元されることになっている。復元作業には、倒壊してばらばらになったレンガの塊や欠片を3次元データ化し、それらがどこの場所にあったのかを特定する最新の3Dデータ技術が駆使されるという。復旧工事の完了時期は未定であるが、崩壊前の姿に復元されるのを楽しみに待ちたい。 - 補遺 - そのことが、この小稿の論点ではないのであるが、水俣病を抜きにして日本窒素肥料株式会社は語れない。以下に示す年表でわかるように、創始者の野口遵が亡くなる数年前頃から水俣病の原因とされるメチル水銀が工場から流出されていたようである。そして、日本窒素肥料株式会社が解散し、チッソ株式会社、旭化成株式会社、積水化学工業株式会社が設立されて数年後に、水俣病第1号患者が発病した。 1906年(明治39年) 鹿児島県大口に曽木電気株式会社を設立。 1907年(明治40年) 熊本県水俣に日本カーバイド商会を設立。 1908年(明治41年) 日本カーバイド商会と曽木電気株式会社が合併して、水俣に 日本窒素肥料会社を設立。 1941年(昭和16年) 水俣工場で塩化ビニール生産、工場からメチル水銀流出。 1944年(昭和19年) 野口遵が死去。 1946年(昭和21年) 延岡工場が旭化成工業株式会社となる。 1947年(昭和22年) プラスチック事業関連が積水産業株式会社(現在の積水化学 工業株式会社)となる。 1950年(昭和25年) 水俣工場が新日本窒素肥料(株)(現在のチッソ)となる。 1953年(昭和28年) 水俣病第1号患者が発病。 わが国の近代化学工業の基礎を築き、日本化学工業界のトップランナーを輩出したことを思えば、水俣病という大きな公害を引き起こしたことがなお一層残念に思えてくる。 曽木発電所の遺構は、今は化学工業と何の関わりのない山あいの川べりの夏草の中で、静かに佇んでいるのみである。 <夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡 芭蕉> 【参考にしたサイト等】 (1)野口遵 ― ウィキペディア (2)日窒コンツェルン― ウィキペディア (3)「旭化成の歴史」(旭化成株式会社公式ホームページ) (4)曽木発電所遺構展望台の案内説明板「曽木発電所から学ぼう」 |
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2004.06.23/2025.10.12 | |||||||||||||
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