レポート  ・ 閑谷学校   
− 閑谷学校(しずたにがっこう) −
今から約 340年前の江戸時代初期。時は封建制度の下で武士による厳しい民衆支配が行われていた時代でした。その頃に、日本最古の庶民のための学校が築かれていたことは驚きでした。
  
寛文6年(1666年)、天下の三賢候と呼ばれる岡山藩主・池田光政公は、領内巡視で和気郡木谷村延原を訪れます。この時、光政公は静寂な山ふところに佇む学問の理想郷、庶民のための一大道場を思い描きます。光政公は、その思いを実現すべく同8年にこの地に手習所を設置、ついで同10年に重臣・津田永忠に命じ、本格的な学校建設に着手し、延原を閑谷(しずたに)と改称しました。
  
岡山藩ではすでに、寛文9年(1669年)、光政公によって、藩士のための教育施設である藩校『岡山学校』が光政公によって開設されていました。閑谷の学校は、これに続く藩立学校であり、地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育し、また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができるようにしようというものでした。
  
延宝元年(1673年)、講堂が完成し、光政公が視察。同年、木谷村 279石余が閑谷学田(閑谷学問所領)とされ、延宝8年(1680年)には、閑谷村の田畑山林が買い上げられ、閑谷学校の所有とされました。これらは、たとえ池田氏が転封や改易になった場合でも、学校が自立経営で存続できるようにと工夫されたものでした。そして、光政公が学問の理想郷を思い描いてから35年後の元禄14年(1701年)、新たな講堂が完成して全容が整い、現在の姿となりました。
 
カリキュラムは、1と6の付く日には講堂で儒教の講義があり、5と10の付く日は休日とされているなどでした。閑谷学校の名声は、古くから天下に聞こえていたようで、高山彦九郎、菅茶山、頼山陽、大塩平八郎、横井小楠などの学者文人も来遊しており、大島圭介など藩外からの来学もあったといわれます。
  
閑谷学校の校地は、長さ 765mにも及ぶカマボコ型の石塀によって取り巻かれ、南側に校門(鶴鳴門)、公門(御成門)、飲室門、校厨門の四門が設置され、なかには聖廟、閑谷神社、講堂、小斎、習芸斎、飲室、文庫などが配置されています。校地の南側と東西の石組みは『切り込みはぎ式』と呼ばれる精巧で重厚なもので、備前焼の赤瓦とともに、閑谷学校独特の景観を演出しています。
  
建造物のうち、講堂が国宝に指定され、小斎・飲室・文庫・聖廟・閑谷神社・石塀など24棟が国の重要文化財に指定されています。また、付近一帯は国の特別史跡に指定されています。聖廟まえの2本の巨大な楷(かい)の木や周辺のもみじが美しく、秋には紅葉の名所となっています。
  
閑谷学校は、明治4年(1871年)の廃藩置県・学制の改革等によって廃校となりましたが、教学の歴史は、明治6年、山田方谷を迎えて再発足した閑谷精舎、さらに明治17年(1884年)の閑谷黌を経て、以後、私立閑谷中学校、岡山県閑谷中学校、県立閑谷高等学校、県立和気高等学校閑谷校舎とつづき、現在は県立和気閑谷高等学校及び県青少年教育センター閑谷学校に引き継がれています。
 
旧閑谷学校の講堂では今でも研修生が床に正座して論語の一章をそらんじあい講釈を受ける『講堂学習』の風景に接することができるそうです。この学校に学んだ者すべてが望み願った、『この谷に朗誦の声の絶えないように』の思いは、今も連綿と生きつづいているといいます。
 
下記の旅行記があります。
◆旅行記 ・閑谷学校を訪ねて − 岡山県備前市
→ http://washimo-web.jp/Trip/Shizutani/shizutani.htm
 
【参考にしたサイトおよび資料】
(1)ウィキペディア『閑谷学校』
(2)日本最古の庶民学校 閑谷学校 -岡山県備前市
(3)国宝閑谷学校
(4)(財)特別史跡旧閑谷学校顕彰保存会のパンフレット
 

2010.10.12  
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