レポート  ・神仏習合と廃仏毀釈   
神仏習合と廃仏毀釈
1970年(昭和45年)の大阪万博でラオス国のパビリオンだった建物が長野県諏訪市の霧ヶ峰に移設され、全戦没者の慰霊と世界平和を祈願する無宗派の寺院『昭和寺』となり、かつては本堂の隣にたてられた青少年研修会館では毎夏『東南アジア学生ゼミナール』も開催されていたそうです。移設から38年を経て、建物は古びていますが、毎年6月、心のこもった慰霊の法要が欠かさず行なわれていて、現在も続けられています。 
 
その年に一度の法要に縁あって出席させてもらいました。高さが3メートルもある黄金色の平和観音像が安置された本堂で、善光寺の僧侶らによって厳かに法要が営まれました。
 
興味深かったことの一つに、昭和寺の境内には、天照皇大神、諏訪大社、霧ヶ峰御射山神社をお祀りする『三社神殿』とよばれる神殿が建てられていて、慰霊の法要に先立って諏訪大社の神官による神事が行なわれたことがありました。
 
その神殿は、伊勢皇大神宮のご遷宮の折の旧材を授与してもらって建材にして建てられたもので、寺院の境内に鎮守神を奉祀して平和を願うという聖徳太子以来の信仰の形式を取り戻すことによって、争いの根源である異教徒排斥を止めるよすがとしたいという願いが込められているそうです。
 
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自然やいろいろな自然現象の中に八百万(やおよろず)神の存在を見い出してきた日本人の神々に対する信仰と、外来宗教である仏教が深く融合した信仰のあり方を、一般に『神仏習合』(しんぶつしゅうごう)と呼びます。神仏習合といえば、宇佐神宮の放生会(ほうじょうえ)が思い出されます。
 
養老4年( 720年)隼人が反乱を起こすと、大和朝廷はそれを鎮定するため、一万人の兵隊を南九州に送りました。宇佐の人々も八幡神を神輿に乗せ、鎮定におもむき、3ヵ年にわたって、抵抗する隼人を平定して帰還しましたが、その後、隼人との戦いでの殺生の罪を悔いた八幡神は仏教に救いを求めます。天平16年( 744年)に、和間(わま)という浜で、蜷(にな)や貝を海に放つ『放生会』の祭典がとり行われたといわれます。
 
そして、聖武天皇が進める天平19年( 747年)の東大寺の大仏建立に際して今度は、宇佐神宮が『全国の神を率いて協力する』というお告げを出し、大仏建立に協力しました。ここに、『神は守り給う、仏は救い給う』という神仏の宥和(ゆうわ)関係ができあがったのです。
 
さらに、八幡神は仏教の保護神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)という称号を与えられ、全国の寺の守り神として全国に広まっていきました。菩薩とは、最高の悟りを開いて、仏になろうと発心して、修行に励む人のことをいいます。すなわち、八幡神は、最初に仏号が与えられた神様となったわけです。
 
538年(あるいは 552年ともいわれる)に伝来した仏教が日本人にすんなり受け入れたわけではなく、紆余曲折があったといわれます。神仏習合を最初になしたのは聖徳太子でしたが、聖武天皇の御代、仏教が国家の宗教となると、ますます神道と仏教を両立させる必要が出てきたわけです。
 
その神仏習合の信仰行為を理論付けし、整合性を持たせる考え方が『本地垂迹説』(ほんじすいじゃくせつ)というものでした。本地垂迹説とは、本来の姿(本地)は、仏・菩薩であるが、衆生(しゆじよう)を救うために神という仮の姿(垂迹)をしているのだという考え方です。すなわち、神はもともとは仏・菩薩だという考え方です。
 
同じ家に仏壇と神棚が共存し、お寺で除夜の鐘を聞き、初詣に神社に行く。子供が生まれると神社でお宮参りをし、七五三を祝う。結婚式は神式、だけれど葬式は仏教。神社の中に神宮寺という寺があり、お寺境内にお稲荷さんや神社がある。このように、聖徳太子以来の神仏習合の宗教観のもとに、わが国の生活習慣や文化が形成されてきたと言っても過言ではないと思います。
 
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ところが、明治維新後、新政府が発した『神仏分離令』や『大教宣』によって状況は一変します。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、仏教寺院、仏像、などが破損されたのでした。特に薩摩藩では、廃仏毀釈が徹底的に行われたところです。たとえば、今年(2008年)のNHK大河ドラマ『篤姫』効果で一躍有名になった、小松帯刀の墓がある園林寺(おんりんじ)跡(鹿児島県日置市)を訪ねると、まず首なしの仁王像に遭遇せねばなりません。
 
 ・園林寺跡の首なし仁王像を見る
  
鹿児島県ではこのような首なし石仏をいたるところで見かけることができます。薩摩藩では、寺院1616寺が廃寺され、還俗した僧侶は2966人にのぼったといわれます(1)。驚くのは、薩摩藩主島津家の菩提寺だった福昌寺(ふくしょうじ)までが、廃仏毀釈によって廃寺になったことです。
 
応永元年(1394年)、島津家第7代当主島津元久が建立した曹洞宗の大寺で、最盛期には1500人の僧侶がいたといわれます(2)。 今も第16代当主・島津義久や第17代当主・島津義弘、島津家第28代当主で薩摩藩第11代藩主の島津斉彬などの威風堂々とした墓が残されているのにもわらず、メジャーな観光スポットにはなっていません。
 
福昌寺跡地には鹿児島市立の高校が建てられ、その校舎が墓地に迫っていて、歴代の墓を見学するにも普通車数台が駐車するスペースすらないという状況なのです。廃仏毀釈が収束して後、有志が同地に福昌寺を再建しようとしましたが諸事情により許可されず、今日に至っています。廃仏毀釈によって寺宝の多くが破壊されたり行方不明となったことが、鹿児島県が文化財過疎県である一因だといわれます(3)
 
【参考サイト】
[1]本地垂迹、廃仏毀釈、神仏習合:フリー百科事典『ウィキペディア』
[2]本地垂迹 → http://w2223.nsk.ne.jp/~toramoto/rhss.htm
[3]福昌寺 (鹿児島市):フリー百科事典『ウィキペディア』
 

2008.07.09.
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