レポート  ・郡上藩凌霜隊   
− 郡上藩凌霜隊 −
会津戦争における白虎隊の悲劇はよく知られていますが、籠城戦中の若松城に入城し、会津藩降伏・開城まで戦った47名の若き郡上藩士がいたという史実は全国的にはほとんど知られていないでしょう。彼等は終戦後、過酷な運命に翻弄させられます。
 
郡上藩(ぐじょうはん、現在の岐阜県郡上市八幡町に存在した藩)四万八千石の青山家は家康公以来徳川家に仕えてきた譜代でしたが時勢に逆らうことが出来ず、戊辰戦争に際し最後の藩主・青山幸宜は新政府へ恭順を表明します。
 
しかし、江戸藩邸では家老の朝比奈藤兵衛をはじめとする強固な佐幕派が主流を占め、藩論は2つに分かれて混乱します。そんな中で結局郡上藩は、朝廷への帰順を決定して恭順の誠を尽くす誓書を差し出しました。
 
実はその一方で、江戸家老の朝比奈藤兵衛は幕府軍が勝利した時のことを考えて17歳の息子・朝比奈茂吉を隊長とする藩士47名をひそかに脱藩させ、幕府軍側の一隊として凌霜隊(りょうそうたい)を結成のうえ、会津戦線に送り出したのでした。
 
慶応4年(1868年)4月江戸を出発し、小山で戦い、宇都宮攻略戦に参加し、会津藩と協議のうえ那須塩原に駐留。その後、9月4日に若松城下に辿り着いたものの、若松の城下には既に8月23日に政府軍が侵攻しており、城は籠城戦に入っていました。
 
そんな中で、9月6日凌霜隊は若松城への入城を果たし、白虎隊の生存者とともに開城の日まで西出丸の防衛に当たりました。しかし、同盟諸藩の降伏が相次ぐなかで孤立した会津藩は9月22日新政府軍に降伏し開城。
 
若松城開城後、生き残った30余名の凌霜隊の隊士たちは藩から苛酷な処分を言い渡され、囚人同様にして故郷の郡上八幡に護送されました。揚屋(牢獄)に半年間幽閉。明治2年(1869年)5月、領内寺僧の嘆願により自宅謹慎を経て、翌年2月に自由の身となりましたが、藩が彼らに手を差し伸べることはありませんでした。
 
何より賊として捕らわれたことで、周囲の目も冷たく、郡上八幡に留まる元隊士は少なかっといわれます。山あいの小さな藩が激動の時代を乗り切るべく取った日和見主義が生んだ悲劇でした。地元では秘史としてしか語られてこなかった凌霜隊が、今は郡上の誇りとなり、郡上八幡城脇に顕彰碑が建てられています。
 
凌霜隊が揚屋(牢獄)から移されたという長敬寺
『長敬寺と凌霜隊』の説明板
【参考にしたサイト】
 (1)郡上藩凌霜隊 日和見主義の国許から見捨てられた会津戦争
    もう一つの悲劇
 (2)郡上藩凌霜隊(戊辰戦争百話・会津)
 (3)戊辰戦争と妙雲寺
 (4)郡上八幡 - nifty
   
 
【参考になるサイト】
 旅行記 ・郡上八幡を訪ねて − 岐阜県郡上市
  

2016.09.04
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