レポート | ・令和の由来と薩摩 |
− 令和の由来と薩摩 −
|
|||||||
天平2年( 730年)正月13日、大宰府の長官として赴任中(60歳を超えてからの赴任でした)の大伴旅人(おおとものたびと、665年〜731年)は大宰府の公邸に31人のお客を招いて、庭に咲く梅を詠み比べる歌宴を催しました。 そのときに詠まれた歌32首が『梅花の歌』として万葉集に載り、新しい元号『令和』は、それらの歌の序文として詠まれた歌の下記の部分に由来します。 初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の 粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす。 〔現代語訳〕時あたかも初春正月の良き月、空気はしとやかにして 風は 穏やかだ。梅は鏡台の前のおしろいのような色に花開き、 蘭は腰につける匂い袋のように香っている。 安倍晋三首相は記者会見で、『厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、ひとりひとりの日本人が明日への希望とともに、それぞれの 花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたいとの願いを込め、決定した。』と説明しました。 実は、歌宴で詠まれた『梅花の歌』32首のなかの一つに薩摩目(さつまのさかん)の高氏海人(こうしのあま)という人が詠んだ歌があるのです。高氏海人については生没年不明ですが、薩摩目は太初位下相当官で、天平2年( 730年)に薩摩国司に任命されたといわれています。 我が宿の梅の下枝(しづえ)に遊びつつ 鶯鳴くも散らまく惜しみ 薩摩目 高氏海人 『我が家の梅の下枝で嬉しそうに鶯が鳴いているよ。散るのを惜しんで』という意味ですが。その歌の歌碑が鹿児島県薩摩川内市の薩摩国分寺跡の近くに整備されている『万葉の散歩道』に建っています。 また、大伴旅人も薩摩にゆかりの人でした。九州南部に住む隼人が反乱を起こした際に征隼人持節大将軍に任命され薩摩に赴き、黒之瀬戸(現在の出水郡長島町)を訪れ、遠く吉野(現在の奈良県南部)に思いを馳せる望郷の歌を詠んでいます。これが万葉集歌の南限の一つになっています。
|
|||||||
|
2019.05.02 | ||||
|
||||
− Copyright(C) WaShimo AllRightsReserved.− |