レポート  ・奥州藤原氏の歴史   
− 奥州藤原氏の歴史 −
2011年6月に世界文化遺産に登録された中尊寺(ちゅうそんじ、岩手県西磐井郡平泉町)を今年(2013年)4月はじめて訪ねました。堂の内外に金箔を押した皆金色の阿弥陀堂である中尊寺金色堂は、堂全体があたかも一つの美術工芸品の感じを呈していてやはり素晴らしかったです。
 
中尊寺は天台宗東北大本山の寺院で、嘉祥3年( 850年)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれ、その後、奥州藤原氏初代・藤原清衡(きよひら)によって大規模な堂塔の造営が行われました。
 
清衡の建立目的は、東北地方で続いた戦乱で亡くなった人々の霊を敵味方の別なく慰め、みちのくといわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものだったそうです。このことを理解するため、奥州藤原氏の歴史について調べてみました。
 
蝦夷とアテルイ
 
大和朝廷(大和王権)以来、古代東北に住む人々は蝦夷(えみし)という蔑称で呼ばれていました。奈良時代の神亀元年( 724年)、平城京の朝廷は蝦夷を律令制によって統治する拠点として多賀城(現在の宮城県多賀城市)を築き、陸奥国府を置くとともに、朝廷軍を統括する鎮守府などを併置しました。
 
蝦夷のなかには朝廷側に帰順する豪族もいましたが、なかには敢然と戦いに身を投じる人々がいました。朝廷軍との戦いで蝦夷の英雄として活躍したのがアテルイ(阿弖流為)でした。アテルイは、征夷大将軍(蝦夷を征伐する大将軍の意味)の坂上田村麻呂と激戦を繰り広げますが、戦乱のない世を願って、延暦21年( 802年)、盟友のモレ(母禮)とともに投降しました。
 
田村麻呂は朝廷との和解のため2人を京へ連れて行きましたが、田村麻呂の助命嘆願もかなわず、2人は朝廷の命により斬首されました。今日、田村麻呂ゆかりの京都・清水寺の境内に『阿弖流為・母禮之碑』が建立されており、毎年11月に慰霊法要が営まれているそうです。
 
前九年の役
 
その後、律令制度が空洞化するなかで、平安中期の11世紀はじめ、現在の岩手県内陸部を中心に安倍氏が強大な勢力を誇るようになります。やがて安倍氏と朝廷との間に軋轢が生じるようになり、前九年の役(前九年合戦とも呼ばれる、1051〜62年)が起こりました。
 
朝廷は軍事に長けた源頼義(よりよし)を討伐軍として派遣。当初は安倍氏が優勢でしたが、頼義が出羽の豪族・清原氏を味方につけたことで形勢が逆転し、名将・安倍貞任(さだとう)の戦死により、蝦夷の独立を目指していた安倍氏は志なかばで滅亡しました。
 
このとき、陸奥国府の官吏だった藤原経清(つねきよ)は安倍貞任の妹を娶り、安倍氏と血縁を結んでいました。経清は、朝廷に対する裏切り者とみなされ、処刑されました。経清の嫡男が、後に奥州藤原氏初代となる藤原清衡(きよひら)でした。
 
清衡は当時7歳。父が処刑されるというこの世の修羅場を見た清衡も殺される運命でしが、経清の妻(母)が、清原武貞(たけさだ)に見初められたことから連れ子として生きながらえることになりました。
 
後三年の役
 
ところが、清原武貞には、すでに本妻との間に真衡(さねひら)という嫡男がおり、やがて武貞と清衡の母との間に家衡(いえひら)が生まれます。いずれも父か母が異なる3人の兄弟が複雑の境遇に置かれることになりました。
 
清原氏は安倍氏に代わって奥羽の覇者となり、やがて武貞の家督は本妻の子である真衡が継ぎました。しかし、家臣団が二つに割れ争うようになり、母を同じくする清衡と家衡が真衡に反旗を翻し、いわゆる後三年の役(後三年合戦とも呼ばれる、1083〜87年)が始まりました。
 
一族が血で血を洗うなか、前九年の役で安倍氏を滅ばした源義家(よしいえ)は陸奥守として赴任してきました。義家が真衡を支持したことで真衡側が一気に優勢になりましたが、勝利を手中にしかけたところで真衡が急死してしまいます。
 
源義家の仲裁により、奥六郡(現在の岩手県内陸部)のうち南三郡が清衡に、北三郡が家衡に分け与えられました。これに不満な家衡は、応徳3年(1086年)、軍勢を率いて清衡が住む館を急襲しました。
 
清衡はかろうじて脱出し、九死に一生を得ましたが、妻子をはじめ一族が殺されてしまいました。清衡は命からがら国府にたどりつき家衡の暴挙を訴え出ました。源義家は清衡の大義を認め、征討軍を差し向けます。これにより家衡軍が討ち取られ後三年の役が終わり、清衡は陸奥押領使となり奥六郡を領しました。
 
中尊寺と約100年に及ぶ繁栄
 
前九年の役と後三年の役で地獄を見た清衡は仏教に帰依し、浄土思想に基づいて戦乱のない世を創ることを念願し、平泉において仏国土の建設に着手しました。長治2年(1105年)に中尊寺の造営に着手、大治元年(1126年)に落慶(完成を祝う催し)の大法要が行われました。
 
この落慶大法要で清衡が読み上げた『落慶供養願文』には、官軍(朝廷軍)や蝦夷を問わず、また人命だけでなく獣や鳥など犠牲になったすべての霊を慰め、極楽浄土に導きたいと記されているそうです。
 
平泉は2代目基衡、3代目秀衡により、浄土思想に基づいた都市づくりが続けられ、その結果、毛越寺や無量光院などの大伽藍、仏塔、庭園などが整然と造られ、平安京に次ぐ規模だったといわれます。
 
奥州藤原氏の終焉
 
しかし、12世紀の終わりになると、京都の伝統的権力と、鎌倉の源頼朝の勢力、そして平泉が、それぞれ相対し厳しい状況になってきます。そこに、源平の戦い、一の谷や屋島の合戦で活躍した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびてきました。
 
まもなく、義経を保護した3代目秀衡が病死すると、つぎの4代目泰衡(やすひら)は、頼朝の圧力に耐えかね、文治5年(1189年)、義経の住いとしていた衣川館(ころもがわのたち、現在の平泉町高館)を急襲しました。武蔵坊弁慶らの勇戦も空しく、敗れた義経は自害し、31歳の生涯を閉じました。
 
義経の首は鎌倉へ送られましたが、それでも頼朝は自ら兵を率いて東北へ進攻しました。その理由は、奥州はかつて源氏の累代が支配しようとしてできなかった『意趣のこる国』だったからでした。泰衡は、怒涛のように進軍してくる鎌倉の軍勢から逃れようと、平泉を放棄し、現在の秋田県内で家臣の裏切りにあい、非業の死を遂げ、同年奥州藤原氏は滅亡しました。
 
【参考文献】
(1)『中尊寺を歩く』(中尊寺発行、平成20年11月第3刷)
(2)岩手日日新聞特別編集『岩手宝国』(岩手日日新聞社、平成25年4月
   発行)
 

2013.06.19 
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