お便り紹介  ・布計(ふけ)の思い出   
− 布計(ふけ)の思い出 −
ワシモ(WaShimo)のホームページの
『旅行記 ・昭和の木造校舎を訪ねて − 鹿児島県大口市布計』

をご覧頂いて、「思い出」と題するお便りを頂きました。
 
− 思い出 −
 
当時、私が布計(ふけ)を立ったのは、昭和27年、小学校5年生の終わり頃と記憶しています。あれから52年になりますか、当時は当然テレビはありませんし、ラジオも無い家が多かったです。
 
終戦後の時代、学校では給食もありません。やっと私が4年生の時に当時のアメリカ軍からの支援で脱脂粉乳がコップ1杯1ケ月30円程度で支給されました。本当は無料なのですが、粉乳を溶いて飲める状態にしてもらうために、村の娘さんを手伝いに雇うお金だったのです。その30円も出せない家庭があってその子たちは昼時はそっと家に帰っていたことを思い出します。
 
みんな貧しかったです。靴がないので、みな裸足でしたし、学校も勉強よりも、学校の裏山に畑を耕してカライモ(さつまいも)つくりに精をだしたものです。私が大阪の小学校に転校してきた時は、非常に勉強も遅れていましたし、大体言葉が通じませんでした。当時は、今と違ってテレビもなかったですから、標準語がわからなかったですね。まともな鹿児島弁でしたよ。
 
当時は蒸気機関車DCデコイチがあえぎながら大口駅に向かって走って、あまりにも急な坂道だったので、動輪が滑って空回りし、ものすごい音を発して走っていたものです。当然、私の将来は蒸気機関車の運転手になることでした。
 
懐かしい布計小学校を拝見させて頂き誠に感無量です。
当時の私の家は、小学校から歩いて20分になりますか、布計金山ラサ工業所の社宅になります。今年は、是非布計に行ってみたいものです。ありがとうございました。
                                 (兵庫県在住のTさんより)
 
〓〓〓〓 Tさん、ありがとうございました。
Tさんとは、歳が一回り前後違うのでしょうか。小学校時代は、お便りにあるような生活だった記憶があります。大口は、昭和40年〜43年の間、薩摩郡から片道1時間半かけて、大口高校に汽車(ディーゼルカー)通学していて、思い出の沢山あるところです。機会がお有りでしたら、是非布計をご訪問下さい。(WaShimo)


2004.04.18
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