レポート  ・相良藩化け猫騒動(猫寺の由来)   
− 相良藩化け猫騒動(猫寺の由来) −
相良(さがら)藩 700年の歴史が今に息づく人吉盆地。その盆地の最東端に位置する熊本県球磨郡水上(みずかみ)村は人吉市街から車で北東に約50分走ります。その水上村にある生善院(しょうぜんいん)は、別名を『猫寺』ともいい、狛犬(こまいぬ)ならぬ『狛猫(こまねこ)』が山門の両脇に建っていて訪れる人を迎えます。
 
なぜ狛猫なのか、それには理由があります。このお寺は、今から380年以上も前、まだ相良氏が人吉球磨地方を統治していた頃、相良藩にかかわる”猫の怨霊”を鎮めるために建てられた寺なのです。
 
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当時、鹿児島(薩摩)の島津義久と戦っていた相良藩は、人質を出して和睦を結びますが、島津氏は『八代(やつしろ)も自領である』といって攻略を始めました。人吉球磨の人々はいつまた薩摩が攻め入ってくるか不安に駆られていました。
 
そんな中で、薩摩との戦いで死んだ先代相良藩主の腹違いの弟・頼貞(よりさだ) − 兄の先代相良藩主とは仲が悪く、薩摩に住んでいた − が多良木(現在の球磨郡多良木町)を訪ねてきました。
 
そのとき、相良藩の出城城主の湯山佐渡守宗昌(ゆやまさどのかみむねまさ)が、その弟で普門寺(ふもんじ)住職である盛誉法印(せいよほういん)と一緒に頼貞に会いに行き、戦死した先代の悔やみを申し上げ、世間話程度をして帰りました。
 
ところが、日頃宗昌をよく思っていない武士たちがこの会談のことを聞きつけ、『宗昌と盛誉法印は、薩摩にいる頼貞と結託して人吉球磨を攻める』と相良藩に嘘の密告をします。それを聞いた藩は、普門寺を攻め落とすことにし、天正10年(1582年)3月16日に攻撃する命令を出します。
 
自分たちに謀反の罪がかかったことを知った宗昌と盛誉法印は、二人で逃げれば本当に謀反をたくらんだと思われるので、宗昌は日向(宮崎)に逃げましたが、盛誉法印は普門寺に残りました。
 
一方、密告した武士たちは、自分たちの策略が藩主にばれた場合には、きっと早がけの犬童九介(いんどうくすけ)が攻撃中止の使いに出るだろうと予想し、『人吉から馬で来る者は無類の酒好きであるので、水を求められたら焼酎を出すように』と、行く先々にお触れを出しました。
 
普門寺攻撃の前日になって、相良藩家老は、盛誉法印は仏に仕える身、果たして謀反などを起こすだろうか、これを殺してしまっては取り返しがつかないことになると判断し、普門寺攻撃を中止させるため犬童九介を普門寺に走らせました。
 
普門寺に向った九介は案の定、途中でのどが渇き茶屋で水を求めました。住人はお触れの通り、大きな湯飲みで焼酎を何杯も飲ませました。酔ってふらふらになった九介は、馬にも乗れず歩くこともできず道端で寝てしまいました。
 
そのため、攻撃中止の命令は届かず、盛誉法印は殺され、寺には火が放たれました。九介が到着したときにはすでに普門寺は炎上していました。策略に乗せられていたとは知らない九介は、盛誉法印を死なしたのは自分の責任だと思い込み切腹して果てました。
 
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無実の罪を着せられて殺された盛誉法印の母玖月善女(くげつぜんにょ)は、その恨みをはらすため、愛猫の玉垂(たまたれ)とともに市房山神宮にこもり、自分の指を噛み切って神像に塗りつけ、またその血を玉垂にもなめさせ、自分と一緒に怨霊となって相良藩にたたるよう言い含め、数十日の断食の後、茂間(もま)が淵(ふち)というところに愛猫とともに身を投げました。
 
すると、相良藩では、猫の怨霊が美女や夜叉に化けて藩主の枕許に立つなど、奇々怪々なことが次々に起き出しました。藩では寛永2年(1625年)に、霊を鎮めるために普門寺跡に千光山(せんこうざん)生善院と名付けて、藩主相良長毎(ながつね)が寺を創建しました。
 
法印の命日である3月16日に、藩民に市房神社と生善寺に参詣するように命じ、藩主自身もそうしたので、怨霊のたたりは鎮まったと伝えられています。
 
【参考にしたサイト】
生善院(猫寺)の由来−熊本県水上村公式ホームページ
生善院(猫寺) − 清流山水花 あゆの里 公式ホームページ
   


2012.08.01  
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