俳句鑑賞  ・永き日   
− 俳句鑑賞・永き日 −
4月も中旬。春分の日から1ヶ月近くが経ち、だいぶん昼間の時間が長くなりました。日が最も長くなるのは夏至の前後(6月20日ごろ)ですが、春は冬の短日をかこったあとなので日が長くなったという実感が強いことから、この時期を永き日、日永(ひなが)などといい、春の季語になっています。
 
日永になって時間的にもゆとりができ、明るいポカポカ陽気に誘われて心持ちものびやかになります。入学式や入社式あるいは新しい土地への引越しから何日かが過ぎ、段々と状況も分かり始め、決意も新たな時期でしょう。なかには3月ごろの悶々とした気持ちを引きずったままの人もいるかも知れません。
 
    永き日のにはとり柵を越えにけり  芝不器男
 
この句は、俳人・芝不器男(しば ふきお、1903〜1930年 )の代表作としてよく紹介される句で、大正15年(1926年)23歳のときの作です。芝不器男は、愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)生まれ。松山高等学校から、大正12年(1923年)東京帝国大学農学部林学科に進学。姉の誘いで句会に出席し句作を始めます。
 
しかし、大正14年に東京帝大を中退し、東北大学工学部機械工学科に入学。このころ、吉岡禅寺洞の主宰する『天の川』に投句、頭角を現し巻頭を占めるようになります。大正15年には、『ホトトギス』にも投稿を始め、高浜虚子より名鑑賞を受け注目を浴びますが、冬季休暇で帰省して以後は仙台に戻らず、昭和2年、東北帝大より授業料の滞納を理由に除籍処分を受けます。
 
のどかな春の日なか、ふいに一羽のニワトリが庭の柵(さく)を越えます。その情景を写生した句ですが、読み返してみると、『永き日』の響きに長い時間の流れが感じられてきます。そして、ニワトリとそれを閉じ込める柵との関係。長い間柵に閉じ込められてきたニワトリがついに柵を越えた。感銘なのか、自分も柵を越えたいという脱出願望なのか...。
 
昭和3年(1928年)伊予鉄道電気副社長・太宰孫九の長女・文江と結婚し、太宰家の養嗣子となりますが、昭和4年、睾丸炎を発病。福岡市の九州帝国大学附属病院に妻を伴い入院。12月に退院し福岡市で仮寓中、昭和5年1月病状が悪化し2月24日永眠、享年26。生涯に残した俳句はわずかに 175句。主治医で俳人の横山白虹は、『彗星の如く俳壇の空を通過した』と評しました。(以上、フリー百科事典『ウィキペディア』を参照、引用。)
 

2009.04.15  
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