レポート  ・日向百済王伝説   
日向百済王伝説 −

宮崎県は『神話と伝説のふるさと』。県北の高千穂町と県南の霧島連山麓の高原町を結ぶ広域観光ルートは『ひむか神話街道』と呼ばれ、沿線には、天孫降臨などの神話をはじめ平家落人伝説など、歴史ロマンを彷彿とさせる数多くの神話や伝説、史跡があふれていて興味が尽きません。日向(ひゅうが)の『百済(くだら)王伝説』もその一つです。
 
宮崎県の北部、日向市から西へ車で50分程走ったところに、宮崎県東臼杵(うすきぐん)郡美郷(みさと)町はあります。周囲を九州山地の山々に囲まれた山あいの町で、その美郷町の南郷区にある『神門(みかど)神社』は、八世紀半ばに、難を逃れて百済(現在の韓国にあった国)から日向に亡命してきたという百済王を祀る神社です。
 
神門神社のかたわらには『百済の館』と『西の正倉院』が建てられ、神門中心部を見下ろす『恋人の丘』には、百済の古都、扶餘(プヨ)の『百花亭』を再現した韓国風東屋が建てられていて、百済の里の雰囲気を醸し出しています。
 
 日向百済王伝説
   
『神門神社縁起』によれば、百済の王、禎嘉王(ていかおう)は、その子福智王(ふくちおう)に譲位して三年目にあたる年に国内に大乱がおき、その難を逃れて福智王とともに日本へわたり、 756年(天平勝宝8年)に安芸国(現在の広島県)の厳島あたりに辿り着きました(1)(2)
 
しばらくの間そこに滞在しましたが、反乱軍の追撃を警戒して、その二年の後に筑紫(現在の福岡県)にむけて再び船を出したところ、天候が急変して、日向国の臼杵郡金ケ浜(現在の日向市)に漂着し、上陸して西の山奥7〜8里の神門(現在の美郷町南郷区)に宮居を定めました。
 
一方、福智王の船は、児湯郡蚊口浦(現在の宮崎県高鍋町)に漂着し、18里先の火弃(ひき、現在の児湯郡木城町比木)に宮居を定めました。
 
しばらくは親子ともども、平和の日々が続きましたが、やがて百済から追討の軍がやってきて、貞嘉王の軍は神門近くでこれを迎撃し、福智王もまた兵をひきいて戦いましたが、追っ手と激しい戦いになり、親子は戦死してしまいます。
 
村人たちは、王族の死を悼み、禎嘉王の霊をこの地の産土神(うぶすながみ)として神門大明神に祀り、福智王の霊を火弃大明神として比木神社に祀りました。神門神社と比木神社では、禎嘉王と福智王の年に一度の対面を再現する祭りである『師走まつり』が今日まで脈々と続けられてきました。
 
 史 実
 
百済は、紀元前18年に韓国ソウル付近の漢江(ハンガン)東部に都を築いて発展し、4世紀には朝鮮半島南西部を支配する王国となり内外に知られるようになりましたが、高句麗の南進により、 475年には都を南の熊津(ウンジン)に遷し、さらに第26代聖王(ソンワン)は 538年に、熊津から現在の扶餘(プヨ)の泗ヒ(サビ)に遷都して繁栄の時代を築きました。
 
聖王は、仏教をあつく重んじ、わが国(倭国)に仏教をもたらした聖明王その人でした。しかし、そのサビの都も、 660年に新羅と唐の連合軍の攻撃を受けると陥落してしまいます。
 
その後、百済の遺臣による祖国回復運動が起きると、百済と親密で盛んに文化交流を行っていた倭国の畿内政権は、兵を派遣してそれを助けます。いわゆる、世にいう白村江の戦い( 663年)ですが、倭国・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に惨敗し、百済は滅亡するに至りました。
 
百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む百済人が倭国に亡命し一部が朝廷に仕えました。豊璋(百済の最後の王である義慈王の子供)の弟・善光の子孫は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済の王統が受継がれて行ったのでした。百済王氏は8世紀に敬福が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど、日本の貴族として活躍しました(3)
 
また、大阪府枚方市の百済王神社は百済王氏の氏神を祭る神社であり、この他にも、5世紀に渡来した昆伎王を祀る飛鳥戸神社(大阪府羽曳野市)などがあります。また、奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残っています。
 
 謎とロマン
     
年に一度、百済王族の親子の対面を再現する祭りである『師走まつり』は、旧暦12月(師走)に行われることからそう呼ばれ、福智王をまつる比木神社から禎嘉王をまつる神門神社までの約90kmに及ぶ遠路を、神官や氏子などに守られながら御神幸が延々と進行します。
 
かつては、比木神社出発から神門神社までの御神幸に5日を要し、禎嘉王が上陸した日向市の金ケ浜での禊(みそぎ)や神楽奉納をはじめ、禎嘉王ゆかりの地でかずかずの神事を行いながら神門神社に到着、それから親子が揃っての祭りが三日間にわたって行われていたそうです。現在は2泊3日に短縮されていますが、『師走まつり』のなかには韓国を偲ばせるものがあるといわれます。
 
神門神社には伝説ばかりでなく、銅鏡三十三面、馬鈴、馬鐸、鉄剣、銅鉾1006本など、多くの宝物も残されています。百済王族の遺品と考えられる銅鏡群の中には奈良正倉院南蔵37号鏡と同一品の『唐花六花鏡』が存在し、しかも、奈良正倉院蔵のものが東大寺大仏殿から出土した品であるのに対して、神門神社蔵の品は大切に保管されていた伝世品です。
 
このようなことから、日向百済王伝説が単なる架空のものではないことが伺われますが、史実の中に禎嘉王(ていかおう)という百済王の名がないばかりでなく、百済が白村江の戦いで滅亡するのは 663年なのに、神門に百済王が亡命するのは八世紀半ばの 756年のことであり、百年の時間のずれがあります。どういうことなのでしょう。
 
『神門神社縁起』では、百済王族は百済から来たことになっていますが、八世紀半ばという時期は、奈良時代の真っ只中で律令国家が出来上がった頃で、権力争いが多かった時期でした。権力争いに関与した亡命百済王族の何某かが政争に敗れ、あるいは政争から難を逃れるために日向へ落ち延びたのではないか(4)(5)
 
安芸の厳島から筑紫に向おうとして日向に漂着したとなっていますが、最初から日向を目指したのではないか。では、なぜ日向だったのか? 出土する古墳時代以前の土器の形式は、日向地方を含む南九州が百済系の影響の強いところだったことを物語っているといわれます(4)。 百済王一族を受け入れてかくまうだけの有力な勢力が日向にあって、それを頼って来たのでないだろうか(6)。興味とロマンは尽きません。
 
下記の旅行記があります。
旅行記 ・百済の里を訪ねて − 宮崎県美郷町
 
【参考にしたサイト】
(1)師走まつり(宮崎・ようこそ宮崎・)
(2)日向耳川流域の木造建築と文化(日向ウェーブ)
(3)百済 - Wikipedia
(4)霧の向こうの百済の里(財団法人九州国立博物館振興財団)
(5)わたしはどこからきましたか (日向の百済王伝説)
(6)百済王伝説 − 王族の出立と逃亡(古代日向入郷ルートの謎)
    

2011.11.16  
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