レポート  ・官園と札幌農学校   
− 官園と札幌農学校 −
            
            (1)官園
 
官園(かんえん)は、開拓使(明治2年(1869年)〜明治15年(1882年))が北海道の函館、札幌、根室および東京府の4箇所に設置した、農業に関する試験・普及機関でした。
 
明治2年に北方開拓のための官庁として開拓使が置かれると、北海道開拓の先鋭として農業振興が図られることになりますが、本州の平地とは異なる亜寒帯に属する北海道では用いる技術が異なることから、アメリカやヨーロッパの技術が導入され、試験されることになりました。この試験を実施する場所を官園と通称しました。
 
当時、ロシアが樺太に兵士と移民を送り込むようになります。ロシアの南下政策に対して日本が劣勢に立たされていることに強い危機感を抱いた政府は、明治3年に樺太開拓使を設置し、黒田清隆を開拓使次官にして樺太専務を命じました。
 
ロシアに対抗し得る国力を充実させるためには、北海道の開拓に力を入れるべきだという黒田の建議に従い、明治4年(1871年)に10年間 1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる『開拓使十年計画』が決定されます。
 
農業に関する試験は、当時、北海道行政の中心だった函館周辺で始まりました。プロシアの貿易商、ガルトネルが蝦夷島政府の榎本武揚と契約を交わして租借していた渡島国亀田郡七重村(現北海道七飯町)の土地を新政府が買い戻し、明治3年、七重官園(ななえかんえん)が設置され、翌年から本格的な事業が始まりました。
 
東京と北海道に置かれた4つの官園の中でも、七重官園は特に実験的な要素が強く、その事業内容は農業に限らず、林業・酪農・養蚕・勧業にまで及び、チーズやハムの製造実験なども行われ、その指導者として外国人教師、いわゆる『お雇い外国人』を招きました。
 
明治4年(1871年)に渡米した黒田清隆は、アメリカ合衆国政府の農務局長だったホーレス・ケプロンをお雇い外国人として招聘(しょうへい)します。ケプロンは、その職に就任すると直ちに、海外からの種苗や種畜の調達、気候の解析など、精力的に農業に関する建言を行い、将来首府となるであろう札幌に官園を設けることを提案し、明治6年(1873年)に札幌官園が開園しました。
 
また、開拓次官・黒田清隆は、種苗や種畜を北海道に持ち込む前に馴化させるため、東京の大名屋敷跡にその地を求め、明治4年に東京官園を設置し、その後、明治7年(1874年)北海道東部の根室にも、根室官園が設置され、それぞれの地域実情に合わせた試験と実証が行われました。
 
明治15年(1882年)に開拓使が廃止されると、官園は整理縮小の道を歩み、明治19年(1886年)に北海道庁が設置されてからは、開拓が内陸に進むにしたがって新開地に忠別農作試験場や十勝農事試作場がそれぞれ新設されて行きます。
             
           (2)札幌農学校
  
一方、札幌農学校は、開拓使における人材育成からスタートしました。当時、北海道の行政の中心は函館でしたが、新政府は道央部の札幌に本府を設置することにし、開拓使札幌本庁が完成する明治6年(1873年)までは、東京・芝の増上寺の境内に開拓使仮庁舎を置き、そこで開拓使の仕事を行ないました。
 
したがって、北海道開拓に当たる人材の育成も、明治5年(1872年)、増上寺に開拓使仮学校を設置して開始されました。開拓使札幌本庁が完成した2年後の明治8年に、仮学校は東京から札幌に移転して札幌学校と改称され、さらに明治9年(1886年)に『札幌農学校』と改称され、開校しました。
 
札幌農学校の初代校長には調所広丈、教頭にはマサチューセッツ農科大学学長のウィリアム・スミス・クラーク博士が招かれました。クラーク博士は、実践を中心とした農業教育を提唱し、当時、札幌官園として機能していた土地一帯を『農黌園』(のうこうえん)として移管し、実践農場としての利用が開始されました。
 
この農黌園という名称は『College Farm』を日本語にしたものです。園内は、学生の農業教育の研究を対象とした『第1農場』と、畜産の経営を実践する農場としての役割を担った『第2農場』の2つの区域に分けられました。第2農場では、それまで日本人になじみのなかった酪農・畜産経営を実践できる実習施設として機能しました。第2農場の施設は現在、北海道大学キャンパス内に『札幌農学校第2農場』として移設・保管されています(1969年に国の重要文化財に指定)。
 
クラーク博士の滞在はわずか8ヶ月でしたが、直接科学とキリスト教的道徳教育の薫陶を受けた1期生からは佐藤昌介(北海道帝国大学初代総長)や渡瀬寅次郎(東京農学校講師、実業家)らを輩出しました。また2代目のホイーラー教頭もクラーク博士の精神を引き継ぎ、2期生からは新渡戸稲造(教育者)、内村鑑三(思想家)、広井勇(土木工学)、宮部金吾(植物学)らを輩出し、北海道開拓のみならずその後の日本の発展に大きな影響を与えました。
 
クラーク博士が帰国に際して残した『Boys, be ambitious』(少年よ大志を抱け)の言葉は、不朽の名言として語り継がれています
 
下記の旅行記が参考になります。
 旅行記 ・札幌農学校第2農場 − 北海道札幌市
 
【参考図書】
[1] 官園 (開拓使) - Wikipedia
[2] 札幌農学校 - Wikipedia
[3] 七重官園事務所跡(七飯町歴史館))
[4] 田中和夫・著『残響』(文化ジャーナル鹿児島社/1998年
  (平成10年)7月第一刷発行)

 

2012.08.15  
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