レポート  ・鹿児島県人七士の墓   
− 鹿児島県人七士の墓 −
政府軍の城山総攻撃によって西南の役が終結したのは、明治10年(1877年)9月24日のことでした。今年(2010年)も9月24日がやってきますが、西南の役後、国事犯として収監され、獄死した薩摩藩士7人の墓が宮城県仙台市にあるというのは驚きでした。
  
そうした史実は学校でも教えてくれないので知る由もありませんから、鹿児島県人でも知っている人は少ないのではないでしょうか。恥ずかしながら、著者が知ったのもつい2年前のことでした。
  
西南の役に従軍して投降した薩摩軍兵士たちは、長崎で裁判を受け、約2700人が北海道を除く全国の監獄署に配置されました。仙台の監獄署には、西郷隆盛の叔父・椎原国幹(しいはらくにもと)ら 305人が送られ収監されました。
 
うち13人が病死。6人は遺族に引き取られますが、残り7人の墓が仙台市内の瑞凰寺(ずいほうじ)に残され、1970年代に七士の墓保存会として『みちのく宮城鹿児島県人会』が発足し、墓を整備、毎年墓参が続けられています。
  
いつか訪ねてみたいと思っていたので、今年3月末の60歳定年退職の記念を兼ねた山形・仙台への旅の旅程にさっそく瑞凰殿を入れました。仙台藩主伊達政宗、忠宗、綱宗の廟所である瑞鳳殿は、仙台駅で観光周遊バス『るーぷる仙台』に乗って約10分後『瑞鳳殿』で下車、両側に杉木立が並ぶ石造の長い急勾配の坂道を登っていきます。もう息が切れそうだという坂の途中の左手に7人の墓はありました。
   
鹿児島県人七士の墓の案内板
   
     仙台に墓がある七士
  
    土岐丑之助    明治11年(1878年)没(25歳)
    長井弥藤太    明治11年(1878年)没(47歳)
    寺田泰介     明治12年(1879年)没(33歳)
    有馬儀定     明治11年(1878年)没(23歳)
    橋口仲二郎    明治12年(1879年)没(36歳)
    米良佐平太    明治12年(1879年)没(40歳)
    有馬純俊     明治11年(1878年)没(25歳)
  
鹿児島県人七士の墓
   
薩摩藩士は、西南の役だけでなく、戊辰戦争でも宮城と戦いましたから、監獄署も処遇に苦慮したことでしょうが、監獄署長たちは、国事犯を待遇よく、温かく迎えました。西南の役では勝者となりましたが、戊辰戦争では敗者だった東北の人たちは国事犯の気持ちが分かっていたに違いありません。
  
国事犯たちは、東北の人たちの厚情に報いるため、椎原らが中心となって宮城県に対し、不毛の地を開墾して朝恩に報いたいという『開墾奉願書』を提出し、開墾奉仕を願い出ます。国事犯たちは、仙台、塩釜、野蒜(のびる)、雄勝で、開墾作業や築港工事などに従事してよく働き、疲弊していた宮城県の開発に大きな役割を果たしました。
  
やがて刑期を終え、薩摩兵士たちは故郷鹿児島に帰りました。なかには仙台に残る人などもいましたが、故郷に帰れず病死したものもいました。椎原はその人たちの永代供養を瑞鳳寺にお願いしたのです。それが7人の墓です。
 
一方、西郷ら西南の役に敗れた薩軍2023名もの将兵が眠っている鹿児島市の南洲墓地には、鳥居をくぐったすぐ左手に招魂碑が建ててあって次のように刻まれています。               
 
招魂碑
明治10年西南の役の事に由り宮城県仙台をはじめ全国各地に幽囚中死歿された人が少なくない 本年恰も南洲神社85年祭にあたりその記念事業の一つとしてこれら諸氏の招魂碑を同士の英霊眠る南洲墓地境域に建てもって慰霊の誠を尽さんとするものである 
     昭和37年9月24日  南洲神社85年祭奉賛会
 
招魂碑(鹿児島市南洲墓地)
   
この招魂碑の裏には12名の名前が記してあって、うち7名は仙台で、5名は宇都宮で死んだとあります。すなわち、南洲墓地に建てられているこの碑は、国事犯として収監され、獄中病死した人たちの鹿児島に帰りたかったという願いをかなえたものに他なりません。
  
【参考にしたサイト】
(1)仙台に「七士の墓」 (JN6BMGのホームページ)
      

2010.09.22  
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