レポート  ・十九の春 〜 その変遷   
− 十九の春 〜 その変遷 −
『十九の春』という歌は皆さんもご存知だと思います。バタヤンこと田端義夫さんが1975年(昭和50年)に歌って全国的にヒットさせた歌です。また、沖縄民謡あるいは沖縄俗謡歌としてカラオケで歌われ、沖縄の民謡酒場にいくと必ずリクエストのかかる歌です。
 
 ♪ 私があなたにほれたのは ちょうど十九の春でした
   いまさら離縁と言うならば もとの十九にしておくれ 〜
 
 ♪ もとの十九にするならば 庭の枯れ木を見てごらん
   枯れ木に花が咲いたなら 十九にするのもやすけれど 〜
 
この『十九の春』には、百余りの歌詞があり、それぞれの人や地域によってそれぞれ違った歌詞や節回しで歌い継がれてきたという、この歌の変遷の歴史を知るきっかけになったのは、今年(2009年)2月28日(土)に放送された朝日放送系列の『朝だ!生です 旅サラダ』というTV番組でした。ゲスト出演の井筒和幸監督が、奄美諸島の加計呂麻島(かけろまじま)に朝崎郁恵(あさざきいくえ)さんを訪ねます。
 
朝崎さんは、1935年(昭和10年)に加計呂麻島の花冨(けどみ)に生れた、島唄の名歌手、いわゆる業界でいう唄者(うたしゃ)と呼ばれる人です。『十九の春』は、彼女の父親の朝崎辰恕(たつじょ)さんが、戦時中に加計呂麻島で作って歌っていたという『嘉義丸のうた』とメロディーがほとんど同じだというのです。嘉義丸(かぎまる)とは船の名前です。
 
太平洋戦争中、多くの民間の商船が日本の近海や東南アジア近海、南太平洋などを航行中、軍艦と同じように攻撃の対象となって撃沈されました。こうした船は戦時遭難船と呼ばれました。最もよく知られているのが、1944年(昭和19年)8月22日、疎開のため沖縄から本土へ向って航行中、鹿児島県のトカラ列島悪石島沖で米軍の潜水艦に撃沈された学童疎開船、対馬丸(乗船者1788名のうち8割近くが死亡)ですが、『嘉義丸』もまた戦時中に撃沈された貨客船でした。
 
大阪から那覇へ向って航行中の1943年(昭和18年)5月26日、奄美大島沖で米軍の魚雷攻撃を受けて沈没し、幼児や老人を含む 341人が犠牲となりました。郷里へ疎開の途中攻撃に遭った福田マシさんは15歳の長女とともに海に投げだされます。そのとき、娘だと思って抱き寄せたのは丸太でした。
 
当時、加計呂麻島で鍼灸(しんきゅう)師をしながら島唄を歌っていた辰恕さんが、マシさんを往診治療するなかでその体験を聞き、鎮魂歌として作ったのが『嘉義丸のうた』でした。曲は一時奄美で流行しましたが、戦中、戦後とも当局から禁止され、忘れられていきました。
 
島を離れ、東京で暮らすようになった郁恵さんは、1975年、その懐かしい旋律をラジオで聴くことになります。田端義夫さんが歌う『十九の春』のメロディーが『嘉義丸のうた』によく似ていたのです。その後、郁恵さんは、忘れかけていた歌詞を思い出しては書き留め、島を訪ねて話を聞いては記憶を補いつつ、戦後60年の節目にあたる2005年、『嘉義丸のうた』を復元させました。いま郁恵さんのCD『おぼくり』でその歌を聴くことができます。
 
さて、『十九の春』のルーツがこの『嘉義丸のうた』かと、さらに調べてみると、島を離れた与論(ヨロン)の人たちの流浪の歴史のなかで『十九の春』の元歌が作られたことを知りました。
 
ご承知の通り、与論島は鹿児島県最南端の島で、沖縄が復帰する1972年(昭和47年)までは日本最南端の島で、リゾート地として賑わったものでした。この与論島から明治時代、三池炭鉱(福岡県)で産出される石炭の積出港として賑わった島原半島南端の口之津(長崎県)に労働者として多くの人が移住していきました。そして、三池港が完成して口之津で仕事がなくなると、今度は大牟田へ集団移住していったのです。
 
当時『ラッパ節』という流行(はやり)歌が全国に広まっていて、口之津や三池でも歌われていました。三味線やうたを得意とした与論出身の労働者たちは、過酷な労働条件と差別に耐えながらの生活のなかで、『ラッパ節』をアレンジして、与論への想いを歌ったのでした(与論ラッパ節)。そして、『与論ラッパ節』を経て『与論小唄』が生まれました。
 
 ♪ 木の葉みたいな我が与論 何の楽しみないところ
   好きなあなたがおればこそ 嫌な与論も好きとなる 〜
 
 ♪ 貴方(あなた)貴方と焦がれても 貴方にゃ立派な方がある
   いくら貴方とよんだとて 磯の鮑(アワビ)の片思い 〜
 
『与論小唄』は、やがて与論島でも歌われるようになり、さらに出稼ぎ労働者や出兵兵士や林業関係者などによって、沖縄や八重山諸島などへと伝わっていきました。そして、コザ市(現在の沖縄市)へ伝わった『与論小唄』が『十九の春』という題名の歌として歌われたのです。
 
『十九の春』は、沖縄の民謡酒場などでは賑やかに歌われますが、本来は、島外において流浪・流転の荒波に揉まれ苦しんだ与論の人々の悲哀が歌い込まれているのです。朝崎郁恵さんの歌う『十九の春』は、いかにも悲しく聞こえます。
 
 ・YouTube −『十九の春』&その変遷史(NHK・BS2から)
    
与論島ラプソディの代表的な島唄『十九の春(与論小唄)』を竹本登氏(竹本ランドリー社長)が若かりし日々を回顧しながら、切々と歌い上げます。
 
 ・YouTube −『十九の春〜与論島小唄』
  
つぎの動画では、デュエットの『十九の春』が聴けます。
 
 ・YouTube - 沖縄民謡 十九の春
      
【参考サイト】
(1)参考図書:川井龍介著『「十九の春」を探して』(講談社、2007年4月発行)
(2)2005年9月28日 NHK・BS2で、ハイビジョン特集 世紀を刻んだ歌『十九の春 島人の哀しみが刻まれた唄』が放送されています。
(3)朝崎郁恵さんのオフィシャルサイトは、
          → http://www.asazakiikue.com/
 

2009.08.26  
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