レポート  ・岩国藩主 吉川広家   
− 岩国藩主 吉川広家 −

はじめて岩国を訪れたのは、今年(2005年)の3月上旬の、瀬戸内地方にも時折り雪の舞う寒い日でした。平成の大改修を終えた錦帯橋、今は吉香公園となっている藩公居館跡、静かに佇(たたず)みながら春を待つ家老屋敷長屋門などを訪ね歩きました。関ヶ原の戦いにまつわる初代藩主・吉川(きっかわ)広家のエピソードが思い出されます。


中村橋之助主演のNHK大河ドラマ「毛利元就」が放映されたのは、1997年ですから今からもう8年前のことになります。西国最大の戦国大名・毛利氏の礎を築いた初代元就は、長男・隆元が41歳の若さで亡くなると、隆元の子である輝元を後継者として後見し、育てます。


元亀2(1571)年、その元就が75歳で死去すると、輝元は弱冠19歳の若さで元就の後を継ぐことになりました。若い輝元を補佐したのが、元就の次男の吉川元春と三男の小早川隆景でした。両者とも当代随一の名将として知られ、共に苗字の末尾に「川」が付くことから「毛利の両川」と呼ばれました。


かくして、毛利家は、本家毛利(輝元)・小早川家・吉川家の三氏をもって、現在の岡山、鳥取、福岡県の一部と島根、広島、山口県全域の中国8カ国 120万石を領していましたが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に属したばかりか、本家・毛利輝元は、西軍の総大将に奉り上げられてしまいます。


このことに苦慮した吉川広家は、家康とひそかに内通し、毛利本家の本領安堵を条件に不戦の約束を取り付けます。合戦当日、広家は、南宮山の山頂に陣取ったままなかなか軍を動かしません。西軍側についていた安国寺恵瓊や長宗我部盛親などの軍も、なんとなく広家について来てしまって、合戦が始まっても兵を動かすことが出来ず、そのまま傍観することになりました。


小早川秀秋にいたっては東軍に寝返り、東軍大勝の立役者となります。小早川秀秋は、この戦功により、備前国・美作国岡山城51万石を与えられますが21歳で早世します。一方、広島城主だった毛利輝元は、敗戦の将となり、広家の取り付けたはずの本領安堵の約束は果たされず、毛利本家は中国8カ国 120万石を没収されます。


そのかわり旧領のうち、防長(周防・長門)二ヶ国36万石が吉川広家に与えられることになり、おどろいた広家は、この申し出を辞退し、周防・長門両国を毛利本家の領土とすることを願い出ます。これが認められ、結局、輝元の子・毛利秀就(ひでなり)に防長(周防・長門)二ヶ国36万石が与えられことになりました。


毛利氏の再興を危険視した幕府は、輝元・秀就父子を交通の不便な日本海岸の僻遠地萩に封じ込めます。それから 260余年後に皮肉にも徳川政権を倒す原動力となる人材を多く輩出することになる萩藩の誕生です。


一方、吉川広家は無禄になりましたが、幕府は特に命じて、毛利家に周防岩国6万石をさかせて与えました。岩国城や錦帯橋で有名な岩国藩です。関ヶ原の戦いにおける吉川広家の行動については、評価の分かれるところでしょうか。広家は、毛利家を救ったことになりますが、毛利軍が全力で動いておれば西軍の勝利もあり得たということになると、微妙な立場となります。


岩国藩は、幕府から大名格として認められ、参勤交代も行っていますが、毛利宗家が大名と認めなかったために江戸期を通じて、毛利長州藩の支藩という扱いのまま冷遇され、将軍に直接目通りすることを許されなかったようです。慶長13(1608)年に、広家が8年の歳月をかけて山上に完成させた岩国城も、元和元(1615)年に、一国一城令が出されると毛利家の自発的な決断によって破却され、竣工からわずか7年でその生涯を閉じます。


しかし、岩国藩は小藩ながら、文武両面の振興に努め、和紙の専売や干拓を行うなどして、実質は10万石程度の収入があったといわれています。江戸時代を通じて、諸藩の中でも極めて異例な状態が続いた岩国藩がやっと独立した藩として認められるのは、江戸時代が終って、明治の世になってからでした。


備考】
下記に岩国錦帯橋の旅行記があります。
◆旅行記  ・錦帯橋 − 山口県岩国市
  → http://washimo.web.infoseek.co.jp/Trip/Iwakuni/iwakuni.htm



2005.06.22  
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