レポート | 小説・不如帰と大山捨松 |
− 小説・不如帰と大山捨松 −
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群馬県渋川市の伊香保(いかほ)温泉を訪ねたのは、2014年の6月のことでした。伊香保温泉は、急傾斜地に作られた 365段の石段の両側に、温泉旅館、みやげ物屋、射的・弓道などの遊技店、飲食店などが軒を連ねているのが特徴の温泉地です。 その石段の中ほどに伊香保温泉の老舗旅館として知られる『千明仁泉亭』(ちぎらじんせんてい)があります。この千明仁泉亭の敷地内で今年(2018年)6月5日夜火災が発生し、旅館と棟続きになっている旅館社長宅が焼けた(旅館は3日に営業再開)というニュースは記憶に新しいです。 §1 伊香保温泉と徳冨蘆花 この旅館は、伊香保を愛した明治の文豪・徳冨蘆花(とくとみ ろか)が常宿として贔屓(ひいき)にした旅館で、冒頭部に同旅館が登場する小説『不如帰』(ほととぎす)を各客室に置いているそうです。『不如帰』は、明治31年(1898年)から32年(1899年)にかけて国民新聞に掲載された徳冨蘆花の小説で、のちに出版されてベストセラーとなりました。 片岡中将の愛娘浪子は、実家の冷たい継母、横恋慕する千々岩、気むずかしい姑に苦しみながらも、海軍少尉川島武男男爵との幸福な結婚生活を送っていました。しかし、武男が日清戦争へ出陣してしまった間に、浪子の結核を理由に離婚を強いられ、夫をしたいつつ死んでゆきます。 家庭内の新旧思想の対立と軋轢、伝染病に対する社会的な知識など当時の一般大衆の興趣に合致し、広く読者を得え、『あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! ああつらい! つらい! もう女なんぞに生まれはしませんよ』というセリフは日本近代文学を代表する名セリフとなりました。 この小説の作中人物には実在のモデルが存在し、ベストセラーとなったが故に、当時小説をそのまま真実と信じた民衆によって、事実無根の風評被害にあった人がありまた。参議陸軍卿・伯爵だった大山巌(おおやまいわお)夫人の大山捨松です。 §2 大山捨松(おおやま すてまつ) 1860年(安政7年)〜1919年(大正8年)。父は会津藩家老山川尚江。幼名を咲子。1871年(明治4)岩倉遣外使節団に加わり、日本初の女子留学生として津田梅子らとともに渡米。この時、母のえんは『娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つのみ』という思いから『捨松』と改名させました。 留学中に看護婦免状を取得。帰国後、大山巌と結婚し、愛国婦人会理事、赤十字篤志看護会等の社会活動や女子英学塾(現津田塾大学)の設立・運営にも尽力しました。そして、いわゆる鹿鳴館時代には社交界の中心として活躍し『鹿鳴館の花』と謳われました。 §3 小説・不如帰 大山巌は同郷(鹿児島)の吉井友実の長女・沢子と結婚して3人の娘を儲けていましたが、沢子が三女を出産後に産褥で死去すると、大山の将来に期待をかけていた吉井は、我子同然に可愛がっていた婿のために、後添いとなる女性を探し求めはじめました。そこで白羽の矢が立ったのが捨松でした。 捨松は大山との間に2男1女に恵まれました。これに大山の3人の連れ子を合せた大家族となり、賑やかな家庭は幸せそのものでしたが、連れ子3姉妹の長女の信子が結核のため20歳で早世してしまいます。彼女をモデルにして徳冨蘆花が書いた小説が『不如帰』でした。 §4 風評被害 小説の中で主人公の浪子は結核のため夫との幸せな結婚生活を姑によって引き裂かれ、実家に戻されると今度は薄情な継母に疎まれ、父が建ててくれた離れで寂しくはかない生涯を終えます。 小説に描かれた冷淡な継母が捨松の実像だと信じた読者の中には彼女に嫌悪感を抱く者が多く、誹謗中傷の言葉を連ねた匿名の投書を受け取ることすらあり、捨松は晩年までそうした風評に悩んでいたといわれます。 実際は小説とはやや異なり、信子の発病後に三行半を一方的に信子に突きつけて実家に送り返したのは夫の三島彌太郎本人とその母で、そんな婚家の薄情な仕打ちに捨松は思い悩むことしきりでした。 これを見かねた津田梅子が三島家に乗り込んで姑に対し猛抗議をしているそうです。看護婦の資格を活かし親身になって信子の看護をしたのも他ならぬ捨松自身でした。捨松は信子のために邸内の陽当たりの良い場所にわざわざ離れを建てさせます。 そうさせたのも、信子が伝染病持ちであることに気兼ねせずに自宅で落ち着いて療養に専念できるようにという捨松の思いやりからでした。巌が日清戦争の戦地から戻ると、信子の小康を見計らって親子3人水入らずで関西旅行までしています。 §5 蘆花の謝罪 捨松は巌の連れ子たちからも『ママちゃん』と呼ばれて慕われていました。家庭は円満で、実際には絵に描いたような良妻賢母だったといわれます。しかし、蘆花からこの件に関して公に謝罪があったのは、『不如帰』上梓から19年を経た大正8年(1919年)、捨松が急逝する直前のことだったそうです。 雑誌『婦人世界』で盧花は「『不如帰』の小説は姑と繼母を悪人にしなければ、人の涙をそゝることが出來ぬから誇張して書いてある」と認めた上で、捨松に対しては、「お気の毒にたえない」と遅きに失した詫びを入れています。 以上のレポートは『不如帰 (小説) - Wikipedia』および『大山捨松 - Wikipedia』、その他を出典にして書きました。下記アドレスで伊香保温泉の旅行記が見れます。 ■旅行記 ・伊香保温泉 − 群馬県渋川市 2014.06
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2018.07.04 | ||||
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