レポート  ・保戸島空襲   
− 保戸島空襲 −
今年(2010年)は、春先から4月にかけて比較的気温の低い日が続いた南九州でしたが、5月も中旬になるとさすがに風薫る清々しい気候になりました。日も長くなり、6月になると田植えも始まり、これから本格的な夏に向けて一年のなかでもっとも希望に満ちた時期ではないでしょうか。
 
しかし、今から65年前の1945年(昭和20年)のこの時期は、三ヶ月後には太平洋戦争が終結する(正しくは、終結した)という中で、多くの若い命が散華を増していった時期でした。知覧や万世(ばんせい)、鹿屋、出水など、多くの特攻基地のあった鹿児島県に生れ住んでいる本HPの管理者には、この時期そのことが思い出されてなりません。
 
大分県津久見市の四浦半島先端のすぐ沖に、保戸島(ほとじま)という周囲が4kmほどの小さな島が浮んでいます。マグロの遠洋漁業の基地として知られるこの島は平地がほとんどないため、海岸に迫る急な斜面に3、4階建てのコンクリート造りの建物がひしめくように建ち並んでいて、地中海の漁港を連想させる風景を見ることができます。
 
この保戸島で、あと三週間すれば太平洋戦争が終るという日に、空襲によって授業中の児童 125人の命が一瞬のうちに奪われるという悲劇が起きました。
 
1945年(昭和20年)7月25日午前10時頃、空母ランドルフの艦載機であるグラマン戦闘機が投下した3発の爆弾の1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)の西側校舎を直撃し、児童 125人(1年生と5年生の全員と他学年生数名)、教師2人、幼児1人が即死し、75人の児童が重軽傷を負いました。爆弾投下後さらに戦闘機によって児童たちに機銃掃射が浴びせられたのでした[1][2]
 
当時の保戸島には、豊後水道を通って瀬戸内海へ侵入する連合国軍の潜水艦を阻むため、これを探知する海軍の施設(レーダー受信基地・潜水艦聴音施設・見張り所)が置かれていました。アメリカ軍の攻撃目標はこれらの軍事施設であり小学校爆撃は誤爆だったとされていますが、逃げ惑う子供たちに対して機銃掃射までが浴びせられた真相は今もって不明とされています[1]
 
現在、保戸島小学校の校門横に、爆死した教師と児童の名前が刻まれた慰霊碑が建てられており、罪なき犠牲者の御霊を弔うべく毎年慰霊祭が執り行われています。小学校の児童が折った千羽鶴でしょう、ペットボトルに入れて吊るしてありました。
 
下記の旅行記があります。
■旅行記 ・保戸島 − 大分県津久見市
 → http://washimo-web.jp/Trip/Hotojima/hotojima.htm
  
【参考資料】
[1]保戸島空襲 - Wikipedia
[2]津久見市観光協会発行の観光パンフレット『保戸島歩記』
  

2010.05.26  
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