レポート  ・平戸はなぜオランダ商館?   
− 平戸はなぜオランダ商館? −
西欧の船として初めて平戸に入港したのはポルトガル船だったのに、平戸の史跡といえば、なぜオランダ商館跡なのでしょうか? そのような観点から平戸の歴史を調べてみました。
 
わが国の西端に位置し、大陸に近かった平戸は、古くより大陸交流の玄関口となった地でした。平安時代には遣唐使の寄港地として、空海や栄西などが立ち寄り、鎌倉時代になると、水軍として名高い松浦党が平戸を根城として私貿易や海賊行為を行い、倭寇(わこう)として恐れられていました。
 
平戸松浦家第25代当主・松浦隆信は、1542年に五峯王直(ごほうおうちゃく)という中国の海商を平戸に住まわせ、彼を仲介として中国との交易を進めました。そして、彼の手引きもあって、1550年に西欧の船として初めてポルトガル船が平戸に入港しました。
 
その前年の1549年、鹿児島に上陸してキリスト教を布教していたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、ポルトガル船が平戸に入港したことを知ると、鹿児島での布教を急遽取りやめ平戸に赴きます。ポルトガルなどのカトリック教国は大名相手に交易と布教をセットで進めていたのです。
 
松浦隆信は、貿易の利益に着目しキリスト教の布教を許し、それによって交易が拡大して行きますが、信者の数が増えるにしたがって、それを好ましく思わない仏教徒や社寺が隆信に圧力をかけるようになります。
 
そんななかで、1561年、平戸の商人とポルトガル人がふとしたことから大乱闘になり、ポルトガル人14人が殺されるという、いわゆる『宮ノ前事件』が起きます。加えて、隣国大村氏が、キリシタンに改宗するなどしたため、ポルトガル貿易は大村領横瀬浦に移っていきました。
 
これによって、平戸は西欧貿易から遠のくかのように思われたのですが、1600年に好機が訪れます。オランダ船・リーフデ号が豊後(現大分県)臼杵(うすき)湾に漂着するという、いわゆるリーフデ号事件が起きたのです。
 
110人ほどいたリーフデ号の乗組員のうち生存者はわずかに24名で、漂着の翌日には3人が死亡したといわれます。船長が病気であったため、航海長だったウィリアム・アダムズが乗組員一行の代表者として、徳川幕府に謁見します。アダムスは、のちに家康に厚遇され、外交顧問となり、三浦按針(みうらあんじん)と名乗りました。
 
1605年、リーフデ号の船長以下乗組員を帰国させることになった絶好の機会を、平戸松浦家第26代当主・松浦鎮信(法印)は、見逃しませんでした。鎮信はすぐさま家康に願い出て、西洋渡航の朱印状を受け、船を造り平戸港よりオランダの東南貿易の基地パタニ(マレー半島東海岸)に乗組員を送還したのです。
 
1609年、オランダは、鎮信の好意に報いるため、国王の親書を携えた商船二隻を平戸に入港させます。鎮信は、直ちに家康に報告し、オランダは家康より日本国への自由来港の許可を受けます。同年、平戸の崎方(現在のオランダ商館跡地)に土蔵付きの家屋を借りて商館とし、貿易を開始しました。
 
家康は、浦賀(神奈川県横須賀市)を外国貿易港とし、商館も同地に移転するよう要望したが、初代館長ジャックス・スペックスは平戸藩主の厚遇と住民の好意に感じるところがあって、平戸を離れなかったそうです。まさしく、鎮信の先見の明ということでしょう。
 
1613年になると、イギリスも平戸に商館を開きますが、インドでの交易に注力すべく10年後には閉鎖し、平戸の貿易はオランダが独占するところとなります。平戸のオランダ商館は、東洋各地の商館の中で最高の利潤を上げるようになったといわれます。オランダは、ポルトガルと違って、交易のみの方針をとっていたので、宗教上の軋轢(あつれき)を生むこともありませんでした。
 
しかし、1637年に島原の乱が勃発。平戸の繁栄にも暗い陰が忍び寄ってきます。島原の乱鎮圧の翌年の1639年、幕府は鎖国令を出しポルトガルと断交するとともに、唯一交易を続けたオランダに対しても商館を平戸から出島に移転するよう命じます。
 
島原の乱鎮圧の総大将・松平伊豆守信綱は、帰途平戸を巡検し、要塞を思わせるようなオランダ商館の威容に驚愕し、長崎出島への商館移転を幕府に進言したそうですが、海外貿易の収益を平戸に独占されることを嫌っての長崎出島(天領)への移転だったとも言われます。
 
破風(屋根の切妻にある合掌形の装飾板)にキリスト誕生を紀元とする西暦年号が記されていることを理由に、1640年、平戸オランダ商館は破壊され、翌1641年、33年間続いた平戸とオランダの貿易は幕を閉じました。
 
【補遺】
平戸の交易の盛衰は、上述のようにキリスト教伝道と深い係わりを持っていました。オランダ商館の長崎出島への移転によって、平戸藩の財政は大きな痛手を被ることとなり、藩は内政の改革を余儀なくされたといわれます。そして、キリスト教にとっても、弾圧が本格化するのは鎖国以後のことでした。
 
そのような歴史を経て今、平戸市内の勝尾岳の中腹にそびえる聖フランシスコ・ザビエル記念教会の瀟洒な尖塔と、隣接して佇む正宗寺、光明寺、瑞雲寺の重厚な瓦屋根とが青い平戸の空を共有している風景がとても印象的でした。
 
・寺院と教会が見える風景
  →
 http://washimo-web.jp/Trip/Hirado01/hirado201.jpg
 
【参考】
・リーフデ号 - Wikipedia
平戸オランダ商館(松浦史料博物館のホームページ)
 

2007.05.16  
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