レポート  ・ひめゆりの塔   
 
− ひめゆりの塔 −
『ひめゆりの塔』は、沖縄戦末期、南風原(はえばる)町にあった沖縄陸軍病院第三外科所属の軍医、看護婦、ひめゆり学徒たちが、南部への撤退時に避難した壕(伊原第三外科壕)の跡に立つ慰霊碑で、現在の沖縄県糸満市伊原にあります。
  
その名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していた『ひめゆり学徒隊』にちなみます。『塔』と名はつくものの、高さ1メートルにも満たない小さな石塔です。これは、終戦直後の物資難の時代に建立されたことと、当時アメリカ軍統治下にあったという事情によります。
  
戦後、戦死したひめゆり学徒の親でもあった金城和信(1898〜1978年)らによって壕が発見されます。終戦の翌年(1946年)の1月、アメリカ軍の命令によってこの地に移り住んできた旧真和志村(現在の那覇市真和志地区)の人々は、当時村長であった金城氏の呼びかけで遺骨の収集を始め、同年4月5日、外科壕跡に慰霊碑を建立しました。
  
この種の慰霊碑は、沖縄県(特に沖縄本島)には非常に多くあり、ひめゆりの塔はそれらのうちで一番古いものではありません。最古のものは、ひめゆりの塔と同じく金城夫妻らが米須霊域に建てた『魂魄(こんぱく)の塔』であるとされていますが、沖縄県首里(現那覇市)出身の作家・石野径一郎(1909〜1990年)によってひめゆりの塔に関する逸話が小説化されると、戯曲化され、さらに同名の映画が作られ、有名になっていきました。
  
現在は、外科壕跡を挟んでひめゆりの塔の奥側には慰霊碑(納骨堂)が建てられ、さらに外科壕跡の左手には、ひめゆり学徒隊に関する資料を保管・展示した『ひめゆり平和祈念資料館』が建てられています。『ひめゆりの塔』は、沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えません。
  
           ひめゆりの塔の記
  
昭和20年3月24日、島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校職員生徒 297名は、軍命によって看護要員として、ただちに南風原陸軍病院の勤務についた。戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風原村一日橋、玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦、生徒たちは、夜昼となく力のかぎりをつくして負傷兵の看護をつづけた。
  
日本軍の首里撤退もせまった5月26日の夜、南風原陸軍病院は重傷患者は壕に残し、歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし、砲弾をくぐり、包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。南に下がって後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
  
6月18日、いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌19日、第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれて地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った5名をのぞき職員生徒40名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等29名、民間人6名も運命をともにした。
  
その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の3分の2が、こうして最期をとげたのである。
              
戦争がすんで、二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により、昭和21年4月7日最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備された。ここに沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員16名、生徒 208名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。
                     
      いわまくらかたくもあらむやすらかに
            ねむれとぞいのるまなびのともは
  
(注)この『いはまくら碑』は、ひめゆり学徒の引率教員だった仲宗根正善先生の歌で、『固いごつごつした岩場で亡くなったのはさぞ無念で辛かったでしょう。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っています』という哀悼の歌です。
  
              ***
  
『ひめゆり』は、学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名『乙姫』と沖縄師範学校女子部の校誌名『白百合』とを組み合わせた言葉で、もとは『姫百合』でしたが、戦後ひらがなで記載されるようになりました。したがって、植物のヒメユリとは関係がありません。
  
なお、ひめゆり学徒隊以外にも他の学校の生徒を集めてつられた学徒隊は別にあり、それぞれ所属校にちなんだ名称がついていました。これらの学徒隊もほぼ同様の運命をたどり、それぞれの名にちなんだ慰霊碑が建てられています。
  
下記の旅行記があります。
■旅行記 ・ひめゆりの塔 − 沖縄県糸満市
     → http://washimo-web.jp/Trip/Himeyuri/himeyuri.htm
  
【参考にしたサイト】
(1) ひめゆりの塔 - Wikipedia
(2) ひめゆり平和祈念資料館 / HIMEYURI PEACE MUSEUM
            → http://www.himeyuri.or.jp/top.html
  

  2012.06.20
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