♪望郷のバラード
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旅行記 ・ひめゆりの塔 − 沖縄県糸満市
ひめゆりの塔
ひめゆりの塔は高さ1メートルにも満たない小さな石塔です。背後にあるのは慰霊碑(納骨堂)。
『ひめゆりの塔』は、
沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科(現在の沖縄県糸満市伊原)が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑で、
終戦の翌年1946年4月7日除幕されました。
ひめゆりの塔(左手の石塔)と献花と千羽鶴
『塔』と名はつきますが、
高さ1メートルにも満たない小さな石塔です。これは、終戦直後の物資難な時代に建立されたことと、
当時アメリカ軍統治下にあったという事情によります。
第三外科壕跡。千羽鶴の手前に見える石塔がひめゆりの塔
現在は、ひめゆりの塔の背後には
慰霊碑(納骨堂)が建てられ、さらに、左手には生存者の手記や従軍の様子などを展示した
『ひめゆり平和祈念資料館』が建てられています。
慰霊碑(納骨堂)
ひめゆりの塔は、
沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも
絶え間なく参拝する人が訪れています。
  南風原町にあった沖縄陸軍病院に看護要員として従軍していた沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、戦闘の激化にともない5月25日に南部(現在の糸満市)に撤退、地下壕(自然洞窟=ガマ)に分散して避難しました。戦局が絶望的になった6月18日、学徒隊は解散を命じられます。しかし、周辺は既にアメリカ軍の激しい砲撃にさらされていました。第三外科壕はひめゆり学徒の最後の地の一つで、19日朝、ガス弾攻撃を受け、壕にいた96名中81名(うち42名がひめゆり学徒と教師)が亡くなりました。戦後、戦死した生徒の親でもあった金城和信氏らによって壕が発見され、遺骨が集められ、終戦翌年の4月にひめゆりの塔が建てられました。
第三外科壕の断面図(現地案内板より)
生き残った者も、
さらに荒崎海岸に追い込まれ自決したりしました。『ひめゆり学徒隊』の犠牲者194人のうち、
128人は『解散命令』後の死者だったといわれます。
第三外科壕跡と慰霊碑(納骨堂)
『ひめゆり』は学徒隊員の母校、
沖縄県立第一高等女学校の校誌名『乙姫』と沖縄師範学校女子部の校誌名『白百合』とを組み合わせた言葉で、
もとは『姫百合』でしたが、戦後ひらがなで記載されるようになりました。
仲宗根正善先生の哀悼の歌『いはまくら碑』
『いわまくら碑』は、学徒隊引率教師であった仲宗根政善氏が、第1回ひめゆりの塔慰霊祭(1946年4月7日)で、戦死した教え子を悼み霊前に捧げた歌の碑です。
  
    
     いはまくら かたくもあらん やすらかに ねむれぞといのる まなびのともは
  
『固いごつごつとした岩場で亡くなったのはさぞ無念で辛かったでしょう。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っています。』という哀悼の歌です(現地案内板から)。
ひめゆり平和祈念資料館
沖縄師範学校女子部と
沖縄県立第一高等女学校は、沖縄戦で破壊され廃校となりましたが、同窓生たちは、
戦後いち早く同窓会を再結成しました。
中庭の美しい花園が少女たちの御霊に捧げられています。
1989年6月、
財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会によって、ひめゆりの塔の隣地に
『ひめゆり平和祈念資料館』が開館しました。
ひめゆり学徒隊の足跡 〜 動員命令から解散命令まで(現地案内板から)
沖縄戦・年表 【3/23】ひめゆり学徒、南風原陸軍病院へ動員。【3/26】米機動隊が慶良間諸島に上陸。島民集団自決。【4/1】沖縄本島の中部西海岸(北谷・読谷地区)に米軍上陸。【5/23】米軍が那覇市に進攻。【5/25】陸軍病院、南部へ撤退。【5/27】軍司令部、首里を撤退。喜屋武半島の摩文仁地区に司令部を移す。【6/18】学徒隊に解散命令。【6/19】第三外科壕にガス弾打ち込まれる。【6/21】荒崎海岸で多くの学徒死亡。【6/22】軍司令官牛島満中将、参謀長長勇中将が自決。【7/2】米軍、沖縄作戦終了宣言。
ひめゆりの塔の記 (刻銘文を読む
 旅行記 ・沖縄(2)−平和を考える
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