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南風原町にあった沖縄陸軍病院に看護要員として従軍していた沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、戦闘の激化にともない5月25日に南部(現在の糸満市)に撤退、地下壕(自然洞窟=ガマ)に分散して避難しました。戦局が絶望的になった6月18日、学徒隊は解散を命じられます。しかし、周辺は既にアメリカ軍の激しい砲撃にさらされていました。第三外科壕はひめゆり学徒の最後の地の一つで、19日朝、ガス弾攻撃を受け、壕にいた96名中81名(うち42名がひめゆり学徒と教師)が亡くなりました。戦後、戦死した生徒の親でもあった金城和信氏らによって壕が発見され、遺骨が集められ、終戦翌年の4月にひめゆりの塔が建てられました。 |