レポート  ・ラフカディオ・ハーンと浦島太郎   
− ラフカディオ・ハーンと浦島太郎 −
熊本県の宇土半島南端とその対岸の天草大矢野島は、突き当たるような形で狭い瀬戸を形成しています。三角ノ瀬戸は天然の良港で、かつて明治政府はここに殖産振興の一環として三大地方港湾の一つ、三角西港(みすみにしこう)を建設しました。三角西港には、今も明治20年築港当時の都市計画がほとんど無傷のまま残されていて、石造りの埠頭や排水路、石橋などが国の重要文化財に指定されています。
 
2012年10月上旬、三角西港を訪ねた日は、海の碧さ、空の青さが眩しいほどの晴天の日でした。天草一号橋の方から三角西港に入ると、まず目に付くのが瀟洒(しょうしゃ)なコロニアル様式の2階建て建物です。
 
建物の名を『浦島屋』といいます。ヨーロッパ風ながら浦島屋とは不思議な感じのするネーミングですが、元々は、開港当時、熊本には東京から見える客を泊める立派なホテルがないというので、迎賓館的施設として建てられたホテルでした。
 
ところが、明治32年に開通した九州鉄道三角線が東三角止まりとなるに及んでホテルは廃業となり、明治38年に国が買い上げて解体、中国の大連に運ばれ日本式旅館として使用されました。現在の建物は、平成4年に数枚の写真をもとに透視図が作成され復元されたものです。
 
三角西港開港当時の浦島屋は、大浦天主堂やグラバー邸、リンガー邸などの建設を手がけた小山秀(秀之進)の手によるもので、明治26年7月22日に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、長崎からの帰途に立ち寄り、このホテルを舞台に、浦島伝説を題材にした『夏の日の夢』と題する紀行文を書いたことで知られています。
 
ハーンが訪れた日も晴天の日でした。加えて、ホテルの女主人は乙姫様のように美しく魅力的な人でした。ハーンはホテルの名前から浦島太郎のお伽噺を思い出すとともに、まるで竜宮城にでもいるような心地になったのでしょう。
 
訪問当日ハーンが友人の東京帝大教授バジル・ホール・チェンバレンへ出した手紙には、後に発表する『夏の日の夢』の前段とも言うべき内容が書かれています。『チェンバレン教授宛1893年7月22日付手紙』(青空文庫)から抜粋してみます。
 
〜 三角には、西洋式に建築され、内装された浦島屋というホテルがありますが、―太陽が蝋燭(ろうそく)よりも良いように、長崎のホテルよりもはるかに良いものです。また、とても美人で― 蜻蛉(かげろう)のような優雅さがあり― ガラスの風鈴の音(ね)ような― 声をした女主人が世話をしてくれました。(中略)
 
神々しく柔らかな青色、そして真珠貝の中心の色たる青色でした。空には夢見るような、わずかに白い雲が浮かんでいて、海面に白く輝く長い影を投げかけています。そして、私は浦島太郎の夢を見たのです。〜 
 
浦島太郎の物語は、私たち日本人にとっては、お伽噺の一つという認識しかありませんが、ハーンにとって浦島伝説は驚きであり、憧れさえ抱いたといわれます。ハーンが亡くなった後、妻の小泉セツ(節子)によって書かれた『思い出の記』には、”日本のお伽噺のうちでは『浦島太郎』が一番好きでございました。ただ浦島と云う名を聞いただけでも『あゝ浦島』と申して喜んでいました。”とあります。
 
              ***
  
ラフカディオ・ハーンは、1850年ギリシャのイオニア諸島の一つレフカダ島で、イギリス軍の軍医であったアイルランド人の父と、レフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティラ島出身のギリシャ人の母のもとに出生。2歳のとき父母は父の家があるアイルランドのダブリンに移住します。しかし、母はアイルランドになじめず、父が西インドに赴任して一人になると精神を病み、キティラ島へ帰国しました。
 
4歳のハーンは父方の大叔母によって厳格なカトリック文化のもとで育てられます。6歳のとき父母は離婚し、父は再婚。16歳のとき寄宿学校で回転ブランコで遊んでいる最中にロープの結び目が左目に当たって怪我をし、視力がなくなります。それ以後、ハーンは写真撮影や初対面の人に対して左眼を隠すようになりました。
 
その翌年、西インドから帰国途中に父が病気で死亡し、ハーンを扶養していた大叔母も、投機に失敗し破産してしまいます。そのためハーンは学校を中退、ロンドンで貧窮した生活を送ることになりました。19才のとき、イギリスのリバプールから移民船に乗ってアメリカに渡りました。アメリカに渡った後も不遇の時代が続きました。
 
              ***
 
『夏の日の夢』には、浦島伝説への驚きと憧れ― それは日本人の思想性、精神性への驚きと憧れということになるでしょう― が次のような記述で書かれています(以下は、その一部分の要約と抜粋です)。
 
〜 浦島は神に惑わせられたが、神の目的を疑って、ついに絹の紐を解いて玉手箱を開けてしまった。浦島は、自分の幸福を壊したと悟った。乙姫様が宮殿の中で、美しく着飾って、あてどなく、帰りを待ちわびていたとしても、浦島は、親愛なる人の元へはもう戻ることはできないのだと悟った。
 
それから、何のトラブルもなしに浦島は往生した。人々は彼のために浦島明神なる神社まで建立している。なぜ、そんなに浦島に同情するのか? 西洋では、まったく異なって取り扱われる。
 
西洋の神々に従わなかったあかつきには、私たちは生かされ続けて、後悔の極みからその外延に至るまで、さらにどん底までを完璧に思い知らされることになる。浦島に対する同情とは、自己への憐憫(あわれみ)でなければならない。そうすると、この浦島伝説は無数の人々の魂の伝説となりうるのである。〜
 
ラフカディオ・ハーンは、あてどなく、帰りを待ちわびる乙姫様にハーンの母を、親愛なる人の元へもう戻ることができなくなってしまった浦島太郎にハーン自身をダブらせたのでした。そして、浦島伝説はハーン自身の魂の伝説ともなりえたのでした。
 
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
 
1890年(明治23年)40歳のとき、アメリカの出版社の通信員として来日。来日後契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり翌年結婚。松江・熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺す。46歳の時帰化し『小泉八雲』と名乗る。著名な日本・日本文化紹介者の一人であり、日本人にとっても、祖国の文化を顧る際の、重要なよすがとなっている。1904年(明治37年)狭心症により東京の自宅にて死去、満54歳没。墓は東京の雑司ヶ谷墓地。
  
 平成4年(1990年)に復元された『浦島屋』
 
下記の旅行記があります。
 旅行記 ・三角西港を訪ねて − 熊本県宇城市
  
【備考】
(1)ラフカディオ・ハーンの経歴については、Wikipediaを参考
   にしました。
(2)青空文庫で下記を読むことができます。
   ・ラフカディオ・ハーン著『夏の日の夢』
   ・『チェンバレン教授宛1893年7月22日付手紙』
   ・小泉節子著『思い出の記』
  

2012.10.31 
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