レポート  ・萩の歴史   
− 萩の歴史 −
 毛利本家、小早川家、吉川(きっかわ)家三氏をもって成立していた毛利家は、織田・豊臣時代には、中国8か国 112万石を領する大大名に成長していました。戦国時代の中国の覇者・毛利元就の孫にあたる毛利輝元は、広島に居城を築き、豊臣政権下では五大老の一人として権勢を誇ります。
 
しかし、関ヶ原の戦いで、西軍の総大将に奉り上げられたばかりか、これを苦慮した吉川広家は、家康とひそかに内通し、南宮山の山頂に陣取ったままなかなか軍を動かしません。
 
小早川秀秋にいたっては、東軍に寝返り、東軍大勝の立役者となりました。秀秋は、この戦功により、備前国・美作国岡山城51万石を与えられますが、21歳で早世。一方、広島城主だった輝元は、敗戦の将となり、毛利本家は中国8か国 120万石を没収されました。
 
そのかわり旧領のうち、防長(周防・長門)二ヶ国36万石が吉川広家に与えられることになります。おどろいた広家は、この申し出を辞退し、周防・長門両国を毛利本家の領土とすることを願い出ます。
 
これが認められ、結局、輝元の子・毛利秀就(ひでなり)に防長(周防・長門)二ヶ国36万石が与えられことになりました。吉川広家は無禄になりましたが、幕府は特に命じて毛利家に周防岩国6万石をさかせて与えました。岩国城や錦帯橋で有名な岩国藩です。
 
広島を立ち退かされることになった輝元は、新たな城地として萩の他に防府や山口を候補地として幕府に伺いを立てます。しかし、幕府が指定してきたのは萩でした。ここに、輝元と長州藩士の長い苦難の旅が始まりました。
 
萩は、北を日本海に面し、三方が山に囲まれています。中心市街地から周辺の市域・市町へ向かう際には必ず峠を越える必要があります。そのため、雨量が多いときや積雪のときには交通が遮断されることが多かったのです。
 
徳川幕府は毛利氏を危険視し、首都を瀬戸内海岸につくらせず、交通の不便な日本海岸の僻遠地に封じ込める策を取ったのでした。輝元は、子・秀就が未だ5歳だったので隠居の身ながら実質上の領主として、慶長9年(1604)、萩に入国しました。耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ思いだったに違いありません。
 
皮肉なことに、封じ込められたがゆえに内にエネルギーを蓄積し、やがてそれを爆発させるかのように、萩はそれから 260余年後、徳川政権を倒す原動力となる人材を多く輩出することになるのです。
 

2008.11.18
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