レポート  ・郷中(ごじゅう)教育   
− 郷中(ごじゅう)教育 −
少子化が進み、子供たちの異年齢交流の減少や地域との結びつきの低下が叫ばれるなかで、異年齢集団活動による青少年育成の試みが全国各地で行われています。
 
鹿児島には、『郷中教育』(ごじゅうきょういく、あるいは、ごちゅうきょういく)という薩摩藩伝統の縦割り教育がありました。郷中とは、『方限(ほうぎり)』と呼ばれる区割りを単位とする自治組織のことで、今でいえば町内会単位の自治会組織と考えればよいでしょう。当時、鹿児島の城下には数10戸を単位として、およそ30の郷中があったといわれています。
 
(1)『泣こよかひっ飛べ』 
 
1947年〜49年生まれの、いわゆる団塊の世代である著者が小学校、中学校時代(昭和30年代)には、鹿児島県内の田舎にもたくさんの子供たちがいました。お兄さんやお姉さん、弟や妹たちと連れだって遊びにいくと、田んぼに用水路があります。
 
まずお兄さんたちが飛び越えてみせます。つぎに、年下の者が飛ぶのに躊躇していると、周りの者が『泣こかい、飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ』と囃し立てます。これは、困難に出会った時はあれこれ考えず、とにかく行動しろという薩摩人の思考法をあらわす言葉で、今にして思えば、郷中教育の名残だったのでした。
 
また、鹿児島県内では、たとえば神社の掲示板などに、@負けるな、A嘘をつくな、B弱い者をいじめるな、という3つの言葉が大きな字で掲示されているのをよく目にします。これもまた、郷中教育の教えを今に伝えている言葉です。
 
(2)外城制度と薩摩藩の教育
 
薩摩は武の国として知られましたが、一つの城楼も天守閣もありませんでした。鹿児島市内にある鶴丸城は、城という名はつくものの、単純な構造の屋形造りの城で、世人は『お屋形』と呼びました。
 
これは、一つには裏に城山があって天然の要害となっていたことにもよりますが、『人は城、人は石垣、人は壕』という標語があったように、人間こそが城砦であり、人間こそが塁壁であり、人間こそが壕渠であると考え、防御の根本を人間の配置においたからでした。
 
すなわち、薩摩藩は、鶴丸城を本城とし、領地を外城(とじょう)と呼ばれる 113の行政区域に分け、武士団を分散してそれらの領地内に住まわせ統治に当たらせました。麓(ふもと)集落と呼ばれるミニ城下町が形成され、その中心に地頭の居館である地頭仮屋が置かれ、ここで外城の行政が行われました。現在でも県内各地でその面影を見ることができます。
 
麓の風景(下甑手打の武家屋敷通り)
 
したがって、藩においては、土民に領国の防衛意識を高揚させるための教育と、中央集権の実をあげる政治との連用が必要でした。教育と政治は密接に関係し、いわば政教は不可分の関係にあったのです。
 
薩摩藩における教育政策の一つに、第8代藩主・島津重豪が設立した藩校・造士館の制度がありましたが、藩政の上に顕著な効果を示したのは郷中教育でした。
 
交通未発達の時代に、日本列島最南端のいわゆる僻地が、多くの偉人傑士を輩出し、明治維新の最も有力な推進力となり得たのは、一に郷中教育の制度が全薩摩藩に広がり、その精神が徹底していたからに他なりませんでした。
 
(3)郷中の生活と教育
 
郷中は、青少年を『稚児』(ちご)』と『二才』(にせ)に分けて、勉学・武芸・山坂達者(やまさかたっしゃ、今でいう体育・スポーツ)などを通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。 
ち ご にせ
稚児と二才
稚児は年齢によってさらに、小稚児(こちご)と長稚児(おせちご)に分けられ、稚児のリーダーとして稚児頭(ちごがしら)がいました。また、二才のリーダーとして二才頭(にせがしら)がいて、二才と稚児の面倒をみました。
 
稚児と呼ばれる武士の子どもたちは、毎日早朝、郷中内の先生の家へ走っていって本読みを習い、家に帰ってくると朝食までそれぞれ本読みの復習をしたり家事を手伝ったりして過ごします。
 
朝食がすむと今度は、馬場と呼ばれる広場や神社の境内などに集って、馬追いや降参言わせ、相撲、旗とりなどの山坂達者によって身体を鍛えます。午後は、共に誘いあって、先輩や先生の家(復習座元)に集まり読み書きの復習をします。その後、稽古場へ行き夕方まで、剣(示現流)、槍、弓、馬術など、武芸の稽古を行ないました。
 
薬丸野太刀自顕流演武(2009.5.17 東郷神社)
  
長稚児たちは、夕方から二才たちが集まっている家(夜話の座元)に行って、郷中の掟を復唱したり自分たちの生活を反省したりします。武士の子としてよくない行いがあれば二才たちから注意を受け、場合によっては厳しい罰を受けることもありました。
 
武士の子どもたちは、一日のほとんどを同じ年頃や少し年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、躾・武芸を身につけ、勉学に勤しんだのです。年長者は年少者を指導すること、年少者は年長者を尊敬すること、負けるな、うそをつくな、弱い者をいじめるなということなどを、人として生きていくために最も必要なこととして教えました。
 
二才同志は、互いに戒めあい、修身の道に各々自重するとともに、二才頭を中心にして互いに熟議し、郷中に起る一切の問題を処理しました。二才たちの手でどうしても処理しかねる時には、長老を訪ねて適宜指導を仰ぎました。このように、郷中教育は、集団のなかでおこなわれ、教師のいない、異年齢によって行われた自治的な教育であったことを特徴としました。
 
なお、鹿児島言葉で、大根のことを『デコン』、野菜のことを『ヤセ』、臭いを『クセ』、西郷を『セゴ』などと、約転していいます。郷中を『ごじゅう、ごちゅう』と読み、二才を『ニセ』と読むのも、この地方方言の特質によります。
 
また、二才は、ボラなどの魚が二年を経て、ようやく成長魚になったばかりの若魚を意味し、これになぞらえ、一人前の付き合いを認められた若者衆を意味しています。
 
(4)郷中のはじまりから成立まで
 
『郷中』という言葉が使われるようになり、郷中教育が完成をみるのは、江戸時代中期の安永年間(1764〜80年)ですが、そのはじまりは、戦国時代の伊作島津家(現在の日置市吹上地域の一部)の10代当主・島津忠良(日新(じっしん)公、1492〜1568年)が試みた青少年の志操教育にありました。
 
島津氏中興の祖といわれ、文武兼備の名将だった忠良公は、神仏の崇敬篤く、神仏儒の三教を良く学び、『薩摩学』『日学』を提唱し、薩摩独特の士風と文化の基盤を築きました。その内容は、忠孝仁義を説き、この実践を奨励するもので、48歳から55歳の間に作ったといわれる『いろは歌』にその思想が遺憾なく謳われています。
 
『古(いにしえ)の道を聞きても唱へても我が行にせずば甲斐なし』ではじまるいろは歌は、郷中教育の規範となり、現代にも大きな影響を与えているといわれます。
 
日新公いろは歌・歌碑(南さつま市竹田神社)
 
日新公は、毎月五、六度、諸子の子弟を城中に召集して、四書の講義をし、『義理ノ咄(はなし)』『忠義人ノ咄』などを話して聞かされたといいます。日新公によってはじめられたこの『咄』の会合の試みは、公の遠逝とともに中断しましたが、これが新しい形式で復活すべき事情が起きてきます。
 
文禄元年(1592年)、太閤秀吉が朝鮮遠征を断行すると、薩摩から義久公・義弘公・忠恒公を始めとして一万余騎の精兵が朝鮮に渡りました。戦争が10年に近い長期間に及ぶに至って、後に残留した青少年の風紀が乱れてきたのです。この時、留守居役を任されていた新納(にいろ)忠元は、そのことにいたく責任を感じ、風俗改善を決意しました。
 
この目的を達成するために、忠元は、少年時代に日新公を中心として催された『咄』の会合を思い起こし、青少年たちの間に集団を結成し、その各員が何事に限らず腹蔵なく話し会える組織をつくり、これを『二才咄』(にせばなし)と名付けました。
 
さらに、日常守るべき数条の規約を定め、これを『二才咄格式定目』(にせばなしかくしきじょうもく)と名付け、実践させました。二才仲間はそれぞれ集団を組織して研磨に励みましたが、『二才咄』への出入りは、比較的自由であり、統制のための規律もなく日常生活における成員の行動は、各自の恣意に任されていました。その状態は江戸時代の元禄5年(1692年)頃まで及んだようです。
 
しかし、太平になれた元禄時代の華美の風潮に風紀は乱れ、元禄15年頃には、怒涛のごとく蔓延した悪風潮は容易に改まる様子もありません。そのため、成員の生活・行動は厳しく規律によって制約されるようになり、第4代藩主吉貴公は、宝永4年(1707年)に、『御袖判条々』という布達を出して、二才衆が交友で遠方に行くことを禁じました。
 
行動範囲に地域的制限を設けたことによって、『方限』という概念が生まれました。すなわち、『方限』は、二才衆の不行跡・喧嘩等を取り締まる目的をもって起きて来たものということができます。
 
ついに『咄相中掟』の条項に、この『方限』の概念が取り入れられ、宝暦4年(1754年)に『稚児相中掟』が出されます。この年は、薩摩藩が幕府から木曽川治水工事(宝暦の治水工事)の命を受けた翌年のことでした。こうした経緯を経て、第8代藩主・島津重豪公の安永年間に郷中教育が完成しましれた。
 
(5)薩摩的エピソード
 
薩摩出身の軍人・政治家、樺山資紀伯爵を祖父に持った随筆家の白洲正子さん(1910〜98年)は、津本陽さんの著書『薩南示現流』(1983年、文藝春秋刊)に出てくる逸話を自伝で紹介しています。
 
幕末、指宿藤次郎という示現流の使い手が京都祇園で見廻組に殺された。その時同行していた前田某という若侍はいち早く遁走してしまった。指宿の葬儀の場に、橋口覚之進という気性のはげしい若侍がいて、『お前(おはん)が、一番線香じゃ。先(さきィ)拝め』といって、参列者の中から前田を呼出した。
 
前田がおそるおそる進み出て線香し、指宿の死体の上でうなだれていると、橋口は腰刀を抜いて、一刀のもとに前田の首を斬ったという。首はひとたまりもなく、棺の中に落ちた。『こいでよか。蓋をせい。』
 
白洲さんは、何とも野蕃な話であるが、橋口にしても、前田にしても、そうしなければならない理由があった。郷中教育を受けた者にとって、この葬儀の場合は、葬儀というより一種の儀式で、参列者は元より、斬る方も斬られる側も、すべて暗黙の了解のもとにあり、『こいでよか』のひとことですんだのであろうと述べています。
 
何より卑怯・卑劣をいやしむ郷中教育の教えからして、前田の行為は最も恥ずべき行為であり、そして郷中教育の教えがそれほど徹底していたということでしょう。この話に出てくる橋口覚之進なる若侍こそ、樺山家へ養子入する前の祖父(樺山資紀)の若き日の姿だったそうです。
 
郷中教育では、『座頭講(ざっつこう)』という催しも行われました。座頭とは盲人の琵琶法師のことで、座頭を招いて薩摩琵琶を弾かせそれを聴くのです。間断のない文武の講習、身心の鍛錬に対して慰安の油を差し込む催しでした。
 
日清戦争の連合艦隊司令長官だった伊東祐亨元帥は、降伏を決めて服毒死を遂げた清国・北洋艦隊提督の丁汝昌の遺体を送らせるため、没収した軍艦の中から商船を外して提供しました。
 
その礼節は世界を驚嘆せしめたのですが、大本営は伊東長官のこの独断の処置を不当とし、電報を打ってその故を質しました。それに対し、伊東長官はただ一言、『武士の情』と返信したので、大本営はそのまま黙ってしまったそうです。後年、同元帥は、『これも全く琵琶歌によって培われた武士道精神の発揮にほかならない』と語られたそうです。
 
(6)現在も伝承されている郷中教育の行事
 
郷中では、3つの大きな行事が行われていました。一に『曽我傘焼』、二に『妙円寺詣り』、三に『義臣伝読み』でした。第一は、鎌倉時代に相模国の曽我兄弟が父の仇討ちを遂げる際、傘を焼いて松明がわりにしたという故事を懐かしみ、孝道の真髄を嘆賞する行事でした。
 
第二は、関ヶ原の戦いで豊臣方として戦った島津義弘公勢が徳川方の敵中を突破し帰鹿を果たした遺徳を慕い、不撓不屈の敢闘精神を練磨するものでした。第三は、赤穂義士の苦衷と遠謀を偲びつつ忠魂の修練に資しました。
 
曽我どんの傘焼き(2006.07 鹿児島市)
 
このうち、『曽我傘焼』と『妙円寺詣り』の行事は現在も伝承されて実施されています。『曽我どんの傘焼き』は、毎年7月下旬、鹿児島市内を流れる甲突川の川べりの櫓に岐阜県和傘振興会などから寄せられた和傘を積み上げ火がつけられます。炎が夜空高く舞い上がり、夏の川面を赤々と焦がすと、人々は、五穀豊穣と洪水無災害を祈願します。
 
また、毎年10月に行われる『妙円寺詣り』では、鹿児島市内から義弘公を祀る日置市伊集院町の妙円寺(現在の徳重神社)までの片道約20キロを歩いて参詣します。
 
【参考文献】
・松本彦三郎著『薩摩精神の真髄 郷中教育の研究』((株)島津興業・尚古集成館、2007年発行)
・白洲正子著『白洲正子自伝』 (新潮文庫、1999年発行)
 
【備考】
本レポートは、季刊『日本主義』(No22・2013年夏、白陽社)の特集『近代の礎をつくった幕末諸藩の教育力』に『郷中教育が培った薩摩の士魂』と題して掲載されたものです。→ http://washimo-web.jp/Report/Gojyu.pdf
 

2005.06.01、2013.06.23(改訂) 
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