レポート  ・小説『蒲団』と岡田美知代   
− 小説『蒲団』と岡田美知代 −
広島県東北部の吉備高原にある人口約 6,800人の小さな町、上下町(じょうげまち)は石見(いわみ)大森銀山からの銀の集積中継地として栄えた幕府直轄の天領でした。商店街には、現在でもそのころの威容を偲ばせる土蔵や町屋が並び、白壁やなまこ壁、格子窓といった歴史的景観が、訪れる人々のロマンをかきたてます。
 
その商店街のほぼ真ん中に、田山花袋の小説『蒲団』のヒロインのモデルになり、みずからも女流文学者だった岡田美知代の生家、旧岡田邸があります。美知代は、県議や上下町長などを務めた岡田胖十郎の長女として生まれ、上京して花袋に弟子入りし、それが縁で、『蒲団』のヒロインのモデルになりましたが、その後の彼女の人生は、小説のモデルという運命の荒波に翻弄(ほんろう)されることになったのです。
 
 田山花袋(たやまかたい、1872年〜1930年)
 
群馬県館林市生れ。1907年(明治40年)に、中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた『蒲団』を発表。女弟子に去られた男が、彼女の使用していた蒲団に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙するという描写は、読者、さらに文壇に衝撃を与えるとともに、この作品によって、日本の自然主義文学の方向が決まったといわれます。 続いて、『生』『妻』『縁』の三部作や『田舎教師』などを発表。1930年(昭和5年)享年58で死亡。
 
 小説『蒲団』(あらすじ)
 
三年前に三人目の子が細君の腹にできた中年の文学者、竹中時雄は、ライフワークに力を尽す勇気もなく、傍ら、ある書籍会社の嘱託を受けて地理書の編集の手伝に社に通う単調なる生活につくづく飽き果てていました。そうした頃、神戸の女学院の横山芳子という女学生から門下生になりたいという一通の手紙が届きます。
 
最初は返事を出さずにいましたが、熱心な手紙を何通かもらうに至って承諾の返事を出すと、翌年の二月、父に連れられて時雄の家に美しい容色(きりょう)の女学生が現れました。最初の一月ほどは時雄の家に仮寓させます。
 
華やかな声、艶(あで)やかな姿。時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、胸がときめきます。これではいけないといろいろ煩悶(はんもん)した挙句、今は軍人未亡人となっている細君の姉の家に芳子を移し住まわせ、そこから麹町の某女塾に通学させることにしました。
 
それから一年半後に事件は起きました。芳子が、田中秀夫という21歳の同志社の学生を恋人に得て、帰省先の実家から上京の折、恋人とともに京都嵯峨に遊んだことが発覚したのです。わが愛するものを奪われたという思いに時雄はもだえ、乱れます。妬(ねた)みと惜しみと悔恨との念が一緒になって旋風のやうに頭脳(あたま)の中を回転し、夕暮の膳の上の酒は夥(おびたゞ)しく量を加えて、泥鴨(あひる)のごとく泥酔するのでした。
 
やがて、田中が同志社を退学して上京してくると、芳子の外出が増え、帰宅が遅くなります。気をもむ時雄。気が気ではない時雄は、芳子を細君の姉の家から自分の家に引き戻し寄寓させます。しかし、時雄の家を出て、田中とともに自活したいといいだす芳子。二人を引き離したい時雄は、芳子の父を上京させ、田中を呼び出し、田中へ京都へ帰るよう説得しますが、田中は首を振りません。
 
結局、芳子が父と郷里に帰ることなり、二人を駅に見送って我が家に帰った時雄は、さびしい荒涼たる気持ちで、別れた後そのままにして置いた二階に上がります。小説は、次のラストシーンで終わります。
 
〜 時雄は机の抽斗(ひきだし)を明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂(にお)いを嗅(か)いだ。暫(しばら)くして立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡(から)げてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団(ふとん)──萌黄唐草(もえぎからくさ)の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟(えり)の天鵞絨(びろうど)の際立(きわだ)って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅(か)いだ。 性慾と悲哀と絶望とが忽(たちま)ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。薄暗い一室、戸外には風が吹暴(ふきあ)れていた。〜(原文を引用)
 
 岡田美知代(おかだみちよ、1885年〜1968年)
 
尋常高等小学校を卒業後、名門神戸女学院に入学しましたが、花袋の小説に感銘を受け退学して上京。1905年(明治38年)、津田英学塾予科に通う傍ら、花袋の内弟子になり文学への情熱を強くしていきます。
 
しかし、帰省した上下からの上京の折、同志社神学部の学生で既知であった永代静雄と京都で会い親密な仲になり、そのことが花袋に知れると、平穏だった師弟関係にさざ波が立ち始めます。静雄との交際は上下の両親の知るところとなり、美知代は上下に連れ戻され、その後、花袋が『蒲団』を発表。小説の世界の話しでありながら、物語は、実在の美知代と静雄と花袋の関係に極似していたのでした。
 
『蒲団』のモデルと噂される二人に、世間の目は厳しく冷たいものでした。そんななかで二人は結ばれますが、静雄は優れた資質を持ちながら就職の機会を狭められ、就職しても偏見と誤解のため失職したこともありました。世間の荒波に翻弄され、二人は同居と別居を繰り返しながら、北陸から九州、そしてまた東京へと転々とする生活を送りました。それまでに一男一女をもうけ、苦しい生活のなかで美知代は作品を書き続け、童話・記事・小説などを発表していきました。
 
41歳の1926年(大正15年)、永代と別れた美知代は、『主婦之友』の特派記者として長男を連れて渡米。アメリカで農園経営に関わっていた花田小太郎と知り合い再婚。17年間をアメリカで過ごしましたが、日米開戦がささやかれるなかで故郷広島に向けて帰国。しかし、すでに上下には家も両親もなく、花田とともに、実妹の嫁ぎ先の広島県庄原市に住み、晩年の穏やかな生活のなかで、1968年(昭和43年)、83歳で他界。(文中敬称略)
 
【参考にしたサイト】
[1] 田山花袋については、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 』より引用しました。
[2] 岡田美知代については、上下歴史文化資料館(旧岡田邸)の『岡田美知代の世界』コーナーのパネル説明文を参考にしました。
[3] 小説『蒲団』については、青空文庫を参考に、一部引用しました。
 → http://www.aozora.gr.jp/cards/000214/card1669.html
 
【備考】
・岡田美知代の故郷、上下町の旅行記があります。
 ■旅行記 ・上下の町並み − 広島県府中市上下町
 

2009.09.16  
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