レポート  ・国木田独歩の文学   
− 国木田独歩の文学 −



余(よ)は時雨(しぐれ)の音の淋しさを知つている、しかし未だかって、原始の大深林を忍びやかに過ぎゆく時雨ほど淋びしさを感じたことはない。これ実に自然の幽寂(ゆうじゃく)なる私語(ささやき)である。深林の底にいて、この音を聞く者、何人(なんびと)か生物を冷笑する自然の無限の威力を感ぜざらん。怒濤(どとう)、暴風、疾雷(しつらい)、閃雷(せんらい)は自然の虚喝(きょかつ)である。彼の威力の最も人に迫るのは、彼の最も静かなる時である。高遠なる蒼天(そうてん)の、何の声もなくただ黙して下界を視下す時、かって人跡を許さゞりし深林の奥深きところ、一片の木の葉の朽ちて風なきに落つる時、自然は欠伸(あくび)して曰(いわ)く「あゝ我一日も暮れんとす」と、しかして人間の一千年はこの刹那(せつな)に飛びゆくのである。    『空知川の岸辺』より


この短編小説『空知川の岸辺』は、独歩が札幌に五日間滞在し、空知川(そらちがわ)の沿岸の調査に出向いたときのことを題材にした作品です。壮大永遠の自然に対比して、有限刹那の人間の無力・はかなさが散文詩的に述べられています。


しかし、それは決して厭世(えんせい)や諦念(ていねん)ではありません。「わずかに五日間(の滞在)ではあったが、余はこの間に北海道を愛するの情を幾倍したのである。」「余は今もなほ空知川の沿岸を思ふと、あの冷厳なる自然が、余を引つけるやうに感ずるのである。何故(なぜ)だらう。」と述べています。


−【注記】−
蒼天(そうてん)=青空
厭世(えんせい)=この世・人生をはかなんで、いやなものに思うこと。
諦念(ていねん)=あきらめてながめること。


『空知川の岸辺』を読む 
→ http://washimo.web.infoseek.co.jp/doppo/Sorachigawa.htm


牛肉と馬鈴薯


ある年の冬の夜、芝区桜田本郷町にある西洋風の建物の二階で数人の男たちがウイスキーを飲みながらストーブを囲んで人生論談義に興じています。かっては北海道開拓を夢見た、熱心な馬鈴薯(ばれいしょ=じゃがいも)党だった面々です。


誰かが、「諸君は牛肉と馬鈴薯とどっちがよいか?」とたずねます。「牛肉がいいねエ!」と松木という男が眠むそうな声で真面目に言い、「しかしビフテキに馬鈴薯は附属物だよ」とひげ面の紳士が得意らしく言います。「そうですとも! 理想はすなわち実際の附属物なんだ! 馬鈴薯もまるきり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」


そんな中で、岡本という男は、「僕は、牛肉党にあらず、馬鈴薯党にもあらずだ」と言い、恋仲になった少女が首を吊って自殺してしまった話をします。すると、誰かが「君が馬鈴薯党でもなくビフテキ党でもなく唯一持っている願いは、死んだ少女に遇いたいということ、つまり恋愛だろう。」と言います。


岡本は、「否(いな)!」と一声叫けんで、こう言います。
「吾(われ)とは何ぞや《What am I ? 》。驚異の念を以(も)って、この宇宙に俯仰介立(ふぎょうかいりつ)すること、不思議なることを痛感すること、源因を虚偽に置きたくないこと、それが僕の唯(ただ)一つの願いだ」と。


【注記】
俯仰(ふぎょう)=〔下を向くことと上を仰ぐことの意から〕立ち居振る舞い。
介立(かいりつ)=自分一人の力で物事をなすこと。ひとりだち。


『牛肉と馬鈴薯』を読む 
→ http://washimo.web.infoseek.co.jp/doppo/Gyuniku.htm


春の鳥


独歩は、英語と数学の青年教師として、明治26年から27年にかけての一年足らずを大分県佐伯(さいき)市で過ごします。『春の鳥』は、佐伯の自然と人々との交流を背景に、佐伯市内の城山を舞台にして書いた短編小説です。


旅行記 ・『歴史と独歩と寿司グルメ − 大分県佐伯市』
     → http://washimo.web.infoseek.co.jp/Trip/Saiki/Saiki.htm


下宿屋(やどや)に、六蔵という子供がいました。六蔵は、生まれつき精神に障害を持つ子でした。どうしても一から十までの数が読めません。それでも、いたずらをするときはずいぶん人を驚かすことがある子でした。山登りがじょうずで、城山を駆け回っているときなどはまるで平地を歩くように、道のあるところ無い所、サッサと飛ぶのです。


六蔵は、「もず」を見ても「ひよどり」を見ても「からす」と言い、ある時は白さぎを見てさえ「からす」と言ったものですが、鳥がすきでした。鳥さえ見れば目の色をかえて騒ぐのです。そして、六蔵は、よく城山の天主台の石垣の角(かど)に馬乗りにまたがって、両足をふらふら動かしながら、目を遠く放って俗歌を歌っていたものです。


『空の色、日の光、古い城あと、そして少年、まるで絵です。少年は天使です。この時私の目には、少年はやはり自然の子であるかと、つくづく感じました。』


そうこうしているある年の三月の末に、六蔵は、鳥のように空をかけ回るつもりで石垣の角(かど)から身をおどらし、墜落して死んでしまいました。


『死骸(なきがら)を葬った翌々日、私はひとり天主台に登りました。そして六蔵のことを思うと、いろいろと人生不思議の思いに堪えなかったのです。人類と他の動物との相違。人類と自然との関係。生命と死などいう問題が、年若い私の心に深い深い哀(かな)しみを起こしました。』           『春の鳥』より


『春の鳥』を読む 
→ http://washimo.web.infoseek.co.jp/doppo/Harunotori.htm


青春の文学


限りある人間の生、壮大永遠の自然に対して有限刹那の人間の生のはかなさ。そのことに思いをめぐらし始める青春の頃、誰もが一度は悩む、「それでも人間の生は存在する」不思議さと驚き。その「不思議さ」、「驚異」(おどろき)を痛感したいという願い。それが、独歩のテーマです。独歩は、36歳という若さで亡くなっています。そして、「驚異」(おどろき)の感覚という青年特有のテーマ。独歩の文学が『青春の文学』と言われる由縁です。


【国木田独歩】(くにきだ どっぽ)
小説家・詩人。明治4年(1871)〜明治41年(1908)。千葉県生まれ。東京専門学校(現、早稲田大学)在学中に、受洗しキリスト教徒となる。雑誌の編集や、教師を経て、明治27年国民新聞記者として従軍し、没後「愛弟通信」として刊行された通信記事が好評を得、明治34年文集「武蔵野」で認められる。ワーズワース詩集を愛読し、自然主義文学の先駆者といわれるが、本質は理知的浪漫主義者。「源おぢ」「少年の悲哀」「忘れえぬ人々」「運命論者」「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」「春の鳥」などを残す。明治41年(1908)、36歳の若さで亡くなる。



2004.02.05 
あなたは累計
人目の訪問者です。
 − Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved. −