レポート  ・若山牧水 〜 あくがれと二面性   
− 若山牧水 〜 あくがれと二面性 −
明治、大正から昭和にかけて、全国を旅し、旅に明け暮れ、生涯に約 8,700首の短歌を詠み、全国に 259基の歌碑が建てられているといわれる若山牧水は、今なお広く国民的支持を得て親しまれています。
  
昨年(2007年)9月、華短歌会の文化講演会で、牧水研究家で歌人の伊藤一彦先生の『よみがえる牧水』と題する講演を拝聴する機会を得ました。牧水の『あくがれ』と『二面性』という話しが印象的でした。
  
  けふもまたこころの鐘をうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれて行く
  幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
  白鳥は哀しからずや空の青うみのあをにも染まらずただよふ
     
かの地へあくがれて、かの地へ行けば、またかの地へのあくがれが沸き、その赴きたきを押え難い。『あくがれ』の語源は、『在所』を『離る』、つまり、魂が今在るところを何かに誘われ離れ去って行くという意味で、そこから『思いこがれる』という今日の言葉が生れたのだそうです。牧水は『あくがれ』の歌人だと、伊藤先生は解説します。牧水は、自分のあくがれを満たそうとし、それに妥協することがなかった、そして、あくがれ(夢、希望、憧憬)が強いほど、寂しさや悲しさが残ると。
  
ではなぜ、牧水はあくがれが強かったのか。一つには、親に愛されることによって得た明るく肯定的な自信と、坪谷(宮崎県日向市東郷町)の豊かな自然の中で生まれ育った経験があったといいます。また、牧水が生きた明治という時代の影響もあった。
  
  おもいやるかのうす青き峽のくにわれの生まれし朝のさびしさ
  ふるさとの日向の山の荒渓の流清うして鮎多く棲みき
  
坪谷の若山家は、牧水の祖父・健海が、弘化2年(1844年)頃にその地に医を開業したことに始まりました。健海は、埼玉県所沢の農家に生まれ、13歳のとき江戸に出て薬屋の丁稚奉公をし、その後長崎で医術を学びました。26才の時、坪谷の友を訪ね、坪谷の山水の美に心うたれ、そのまま永住したといわれています。
  
それゆえ、牧水自身、ふるさとを愛してはいるが、どこかで『よそ者意識』が強く、ふるさとを愛しながら外に対してのあくがれが強かったのではないか。そしてそれは、牧水の『二面性』にもつながります。山を愛しながら海に憧れます。
  
  秋かぜの信濃に居りてあを海の鴎をおもふ寂しきかなや
  
明治45年(大正元年)、父病気のため帰省して約十ヶ月を坪谷で過ごしますが、近親者たちから故郷にとどまって就職するよう強く求められます。ふるさとを愛するの想いと東京を愛するの想い、そして捨てがたき短歌の道。二面性に迷って苦闘苦悩の日々を送ります。この苦悩の間に詠んだ歌五百余首は第六歌集『みなかみ』に収められ、この時代を『みなかみ』時代と呼びます。
  
  ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきてをり
  飲むなと叱り叱りながらに母がつぐうす暗き部屋の夜の酒のいろ
  納戸の隅に折から一挺の大鎌あり汝が意思をまぐるなといふが如くに
  
父・立蔵は、山林や鉱山などに何度も手を出して失敗し、祖父の残した財産をつぶした人でしたが、牧水とは親子というよりむしろ親しい友達といった関係を保ち、牧水の長い間の不孝に対して怒ることも、恨むこともなく、終始他に対して牧水を弁護愛撫するのみだったそうです(歌集『みなかみ』より)。一方、母・マキは、士族の出で、きびしい母でした。
  
  二階の時計したの時計がたがへゆく針の歩みを合はせむと父
  われを恨み罵りはてに噤(つぐ)みたる母のくちもとにひとつの歯もなき
  父の愛は黒き幕のごとく、母の愛は釘のごとし、滅びむとする家
  
牧水は情熱的な恋をしたことでも知られています。21歳の明治39年(1906年)、帰省の途中、神戸高商在学中の旧友を訪ねた際に、園田小枝子という女性と出会い、翌年交際を始めます。明治41年正月、二人は房総半島の南端、千葉県安房根本の海岸で新春を迎え、十日余り滞在しています。
  
  われまよふ照る日の海に中ぞらにこころねむれる君が乳の辺に
  接吻くるわれらがまへに涯もなう海ひらけたり神よいづこに
  山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君
  
牧水は結婚を申し込みますが、なかなか返事をくれません。実は、小枝子はすでに結婚していて、二人の子どももあったのでした。嫉妬に苦しみ、自己嫌悪の、自暴自棄の酒をあおります。
  
  海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり
  なほ耐ふるわれの身体をつらにくみ骨もとけよと酒をむさぼる
  
明治44年(1911年)春、苦悩の末、園田小枝子との5年間の交際に終止符を打ちます。そして、その夏出会ったのが、信州長野から上京してきていた太田喜志子という女性でした。彼女もまた歌人で、牧水は、『私を救って欲しい』と彼女に唐突に求婚します。明治45年、結婚。良妻を得た牧水は、心おきなく酒と旅を愉しみつつ、歌を詠み続けます。
  
家にいたら旅に出たくなる、旅に出たら帰りたくなる。酒を飲みたいけど、飲んだらいけないと思うけど、飲まずにはいられない。私は悲しい、寂しい、つらい。牧水は、ありのままをさらし、それを歌に詠んだ人でした。弱さを見せられる、それが他ならぬ牧水の強さでした。
  
大正14年(1925年)、沼津に新居を構え転居。千本松原や富士山を愛し、千本松原保存運動を起こし、富士の歌を多く残す。昭和3年(1928年) 9月17日、43歳で永眠。酒が好きで、日常一日一升の酒を飲んだといわれます。死因は肥大性肝硬変。死後しばらく経っても死体から腐臭がしなかったため、『生きたままアルコール漬けになったのでは』と、医師を驚嘆させた、との逸話は有名。
  
【参考にしたサイト】
[1]若山牧水:フリー百科事典『ウィキペディア』
[2]若山牧水 -Official Web Site-
[3]若山牧水、第6歌集『みなかみ』
 

2008.03.19
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