レポート  ・和宮と篤姫の和歌   
− 和宮と篤姫の和歌 −
NHK大河ドラマ『篤姫』の第43回『嫁の決心』(10月26日放映)で、和宮(和宮親子内親王=かずのみやちかこないしんのう)のもとに大阪城で病没した家茂の形見として西陣織が届けられるシーンが放映されました。家茂が長州征伐のために上洛の際、凱旋の土産は何がよいかと問われ、和宮は西陣織を所望したのでした。
 
形見となってしまった西陣織を抱きしめたながら家茂を偲び悲しみに耐える和宮でしたが、和宮はこの西陣織を、家茂が埋葬されている増上寺に奉納します。そのとき、和宮が歌った歌が有名ですね。
 
   空蝉の唐織り衣
       なにかせんあやも錦も
              君ありてこそ
 
この西陣織はのちに追善供養の際に、袈裟として仕立てられ、『空蝉の袈裟』として増上寺に現在まで伝わっているそうです[1]
 
和宮は、幕府瓦解後いったん京都へ戻りましたが、叔父らの勧奨もあって、明治7年(1874年)に再び東京に戻りました。東京移居後は、皇族や篤姫をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになりましたが、この頃より脚気を患い、明治10年(1877年)8月、転地療養のため箱根塔ノ沢へ向かいました。
 
転地療養先では地元住民との交流もあったとも言われますが、程なく明治10年9月2日早朝、脚気衝心(脚気による心不全)のため、塔ノ沢の早川沿いにある環翠楼(かんすいろう)で亡くなりました。31歳という短い生涯でした[1]。
 
それから3年後の明治13年、篤姫は熱海旅行の途上、和宮終焉(しゅうえん)の地を訪ねました。早川の早い流れが和宮の早世とダブります。和宮を偲んで詠んだ篤姫の次の和歌が知られています[2]
 
   君が齢(よわい)
      とどめかねたる早川の水の流れも
                  うらめしきかな
 
和宮の早世を惜しむ篤姫の切々たる思いが伝わってきます。和宮の終焉の宿となった環翠楼は、創業約 400年の歴史生きづく老舗旅館として親しまれているそうです。
 
・環翠楼 | 歴史生きづく宿 → http://www.kansuiro.co.jp/
 
【参考にしたサイト】
[1]フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[2]NHK総合テレビ『その時歴史が動いた〜江戸城無血開城・天璋院篤姫〜』(平成19年4月25日放映)
 

2008.10.29
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