レポート  ・天璋院篤姫   
− 天璋院篤姫 −

宮尾登美子さんの歴史小説『天璋院篤姫』(てんしょういん あつひめ)は、1983年(昭和58年)から1984年にかけて日本経済新聞夕刊に連載された、宮尾さん初の歴史小説ですが、2008年NHK大河ドラマにドラマ化されました。そこで、天璋院篤姫についてまとめてみました。
 
1.今和泉島津家と篤姫
 
第4代島津家当主・島津忠宗の次男忠氏が、薩摩の出水(現在の鹿児島県出水市)の地を領して和泉(いずみ)氏と称し和泉家が始まりましたが、和泉家5代当主・直久が応永24年(1417年)に川辺城の合戦(現鹿児島県南九州市)で戦死したことによって和泉家は断絶してしまいます。
 
それから 320年余りが経過した延享元年(1744年)、薩摩藩第5代藩主・島津継豊(つぐとよ)が弟の島津忠郷(たださと)に和泉家を再興させたのが、今和泉家です。
 
指宿郷の岩本と小牧、新西方の一部、頴娃郷の池田村と利永をさいて一つの新しい郷として今和泉郷が創設され、今和泉家の領地とされました。その後、佐多や伊作、串良(くしら)などの飛び地が加わって、石高は一万五千石となりました。
 
今和泉島津家は、重富(しげとみ)家・加治木(かじき)家・垂水(たるみず)家とともに、『一門家(いちもんけ)』と呼ばれる薩摩藩最高の家柄でした。一門家は、藩主の代役を勤めたり、参勤交代から帰る藩主を国境(くにざかい)まで迎えに行くなど、様々な役割を担っていました。また、藩主に同行して将軍と謁見(えっけん)することができたのも、この一門家だけでした。
 
今和泉家の本邸は、現在の鹿児島市の大龍小学校の隣りにあり、敷地は4600坪あったといわれますが、今和泉島津家初代・島津忠郷(たださと)は、宝暦4年(1754年)に、現在の指宿市今和泉小学校の所に別邸(領主仮屋)を建てました。今は建物は残っておらず、小学校の海岸側に当時の石垣や松林(隼人松原)、校庭に井戸と手水鉢(ちょうずばち)が残されています。
 
篤姫は、天保6年(1835年)12月19日、今和泉島津家第5代当主・忠剛(ただたけ)の第4子として、鹿児島市の本邸に生まれ、幼名を一子(かつこ)、愛称を、於一(おかつ)と呼ばれました。
 
2.養女から13代将軍徳川家定の正室へ
 
嘉永6年(1853年)に第11代薩摩藩藩主・島津斉彬(なりあきら)の養女になり、名を篤姫(あつひめ)と改め、同年鹿児島から江戸藩邸に入りました。斉彬の養女となったのは、将軍家への輿入(こしい)れを想定に入れたものでした。
 
それ以前から大奥より島津家に対して縁組みの持ちかけがありました。大奥の目的は、島津家出身の御台所(広大院)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われます。当時の将軍・徳川家定の正室は次々と夭死(ようし)しており、家定自身も病弱で、子供は一人もいませんでした。
 
一方、篤子は斉彬から政治的使命を帯びて江戸城へ送り込まれたとされています。斉彬は、将軍後継問題を巡り、次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派と、紀州慶福(徳川家茂)を推す南紀派に分かれて対立する幕閣において、慶喜の将軍後継を実現させるために篤子を徳川家へ輿入れさせました。
 
安政3年(1856年)、篤姫は右大臣近衛忠煕の養女となり、その年の11月に家定の正室として大奥へ入りました。
 
3.そして、天璋院へ
 
しかし、安政5年(1858年)7月に斉彬が死去し、さらに同年8月に夫の家定までが急死してします。病弱な夫との間に夫婦としての交わりのなかった、2年に満たない生活だったといわれますが、篤姫の、夫・家定をいたわる姿があったそうです。
 
14代将軍には徳川家茂が就任することとなり、篤姫は使命を果たすことが出来なかったわけです。家定の死により篤姫は、24歳の若さで仏門に入り、以後『天璋院』と名乗ります。
 
幕府は公武合体政策を進め、文久2年(1862年)には朝廷より家茂の正室として皇女和宮が大奥へ入ることが決定されます。薩摩藩は天璋院の薩摩帰国を申し出ますが、天璋院が帰国を拒否しました。輿入れした当初の和宮と天璋院は一種の『嫁姑』の関係にあり、更に皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあって不仲でしたが、後に和解したとされています。
 
勝海舟の談話などから、自らが擁立する予定だった15代将軍・徳川慶喜とは険悪な仲であったとされ、慶応2年(1866年)には慶喜の大奥改革に、家茂が死去して『静寛院宮』と名乗っていた和宮と共に抵抗しました。
 
一方、慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅してから江戸城の無血開城に至る中、自らの実家に当たる島津家に嘆願し、朝廷に嘆願した和宮と共に徳川家救済や慶喜の助命にも尽力したといわれます。
 
4.晩年
 
晩年は、田安亀之助こと徳川宗家16代家達の養育に心を砕きました。明治期は徳川家からの援助で過ごし、明治16年(1883年)に東京の一橋邸で死去、享年48歳。東京都台東区上野の寛永寺に、夫・家定の墓と並べて埋葬されました。自分の所持金を切り詰めてでも元大奥の下々の者の就職や縁組に奔走し、金を恵んでいたため、死に際してその所持金はたった3円(現代の6万円)しかなかったといわれます。戒名は天璋院殿敬順貞静大姉。(2.養女から13代将軍徳川家定の正室へ 以降は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用、一部編集)
 
【備考】
下記の旅行記があります。
■旅行記 ・天璋院篤姫ゆかりの地 − 指宿市・鹿児島市
   → http://washimo-web.jp/Trip/Imaizumi/imaizumi.htm
 

2008.01.09  
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