レポート   ・ピサの斜塔とガリレオ   
− ピサの斜塔とガリレオ −
イタリア共和国のフィレンツェから西へ車で1時間、ティレニア海に面した港湾都市ピサは、11〜13世紀にはベネチア、ジェノバ、アマルフィと並び地中海商業圏で権勢を誇る4大海洋共和国のひとつでした。
 
1063年にパレルモ沖でサラセン(現在のシリアからサウジアラビアにまたがる地域の砂漠遊牧民)の艦隊を破ったことを記念して建築を始めたといわれるピサ大聖堂の鐘楼は『ピサの斜塔』として知られています。
 
そして、ピサは、物理学者・天文学者・哲学者であったガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)が生まれ育ったところです。28歳までピサ大学の教授を務めたあと、パドヴァ大学へ移り、多くの画期的発見や改良を成し遂げていきます。
  
ピサの斜塔とガリレオといえば、『落下の法則』と『振り子の等時性』に関する伝説が伝えらえています。
 
 §1.落下の法則
 
軽い物と重い物、例えば、硬式野球のボール(質量0.145kg 前後)とその約50倍の重さがある砲丸投げの砲丸(質量7.26kg)をビルの屋上から同時に自由落下させたら、どちらが先に地面にたどり着くでしょうか。
 
正解は『両者は同時に着地する』です。今では、高校程度の物理と数学に関する知識があれば、物体の自由落下の速度(従って物体が自由落下するときの時間)は、落下する物体の質量(重さ)には依存しないということを論理的に導き出すことができます(図1)。
 
しかし、アリストテレス(古代ギリシアの哲学者)の自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていました。ガリレオは、上述の『落下の法則』を発見し、それを証明するために、ピサの斜塔で落下実験をしたといわれます。
 
斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落として両者が同時に着地するのを見せたというのです。なるほど、ピサの斜塔を目前にすると、いかにも落下実験をするのに適したふうな斜塔に違いありませんが、この有名な故事は、ガリレオの弟子の創作で、実際には行われていない、とする研究者が多いといわれます。
 
実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、大きさは同じだが重さの異なる球を転がす実験であり、実際その様子を描いた絵画が残っているそうです。そして、『落下の法則』は、フランドル(現在のベルギー)出身の数学者で物理学者だったシモン・ステヴィン(1548〜1620年)という人によってガリレオよりも早く発見されていました。
図1 落下の法則
 写真1 ピサの斜塔
 
 §2.振り子の等時性
 
糸の先におもりをぶら下げて振り子をつくります。そして、それを揺らします。振り子が一往復するのに要する時間(これを周期といいます)は、おもりの重さ(質量)や振幅(振れ幅)には無関係であり、もっぱら糸の長さによって決まります。これを『振り子の等時性』といいます(図2)。
 
ピサの斜塔がある『ピサのドゥオモ広場』の緑の芝生の中央にそびえるピサ大聖堂の中に入ると天井から大きなランプ(シャンデリア)がぶら下がっています。ガリレオはこのランプが揺れるのを見て『振り子の等時性』を発見したとして、このランプは『ガリレオのランプ』と呼ばれています。
 
しかし、これもまた後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明であるといわれています。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案しましたが、実際には製作されませんでした。
   
 図2.振り子の等時性
  写真2 ガリレオのランプ
 
 §3.地動説と宗教裁判
 
当時主流だった地球中心説(天動説)を覆し、太陽中心説(地動説)を唱えたのは、ポーランド出身の天文学者であったコペルニクス(1473〜1543年)でした。ガリレオは最も早くから天体観測に望遠鏡を取り入れ、木星の衛星や金星の満ち欠け、太陽の黒点などを発見するなど、地動説に有利な証拠を多く見つけ、コペルニクスの地動説を支持し唱えました。
 
そのために、ガリレオは1616年と1633年の二度、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられました。地動説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げたガリレオが、その後につぶやいたという『それでも地球は動いている』という言葉はあまりにも有名です。
 
ガリレオは、軟禁状態におかれ、散歩のほかは外に出ることを禁じられました。その後の一生を監視付きの邸宅で過ごし、すべての役職が判決と同時に剥奪されたまま、1642年に78歳で死去しました。
 
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されませんでした。そのために葬儀は延期され、正式な許可に基づく埋葬が行われたのは、没後95年を経た1737年のことでした。ミケランジェロ、マキャヴェッリ、ジョヴァンニ・ジェンティーレ、ロッシーニといった有名なイタリア人たちとともにフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に眠っています。
 
1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まり、1992年、奇しくもコペルニクスと同じポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、ガリレオ裁判が誤りであったことを公式に認め、ピサの斜塔の頂上においてガリレオに謝罪しました。ガリレオの死去から実に 350年後のことでした。
 
【参考サイト】
(1)ガリレオ・ガリレイ - Wikipedia
(2)ピサの斜塔 - Wikipedia

2014.10.22
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