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旅行記 ・人形の館(山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館) −宮崎県都城市  2011.12.17
人形の館
(山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館)
人形の館(山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館)・正面外観

  都城市山之口町 鹿児島県と県境を接し霧島連山を北西に望む都城盆地の一角に位置する山之口町は、交通の要衝となる場所だったことから、中世より江戸時代まで権力者の領地争いが続いた場所でした。慶長19年(1614年)になると薩摩藩の直轄地となり、その後本藩より派遣された『郷士』による統治が行われるようになりました。今に伝わる山之口麓文弥節人形浄瑠璃も参勤交代で江戸へ行った郷士たちが上方から持ち帰ったものでした。郷士たちが住んだ麓地区は、今も当時の武家屋敷の面影を残しており、現在の人形の館(山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館)のあるところに、当時の役所(地頭仮屋)がありました。
 宮崎県都城市の位置    
資料展示室(人形の館には、資料展示室、人形浄瑠璃上演舞台・観客席、収蔵庫などがあります))
 ふもとぶんやぶしにんぎょうじょうるり
麓文弥節人形浄瑠璃(
九郎判官源義経
現在では『人形浄瑠璃文楽』として知られており、文楽(ぶんらく)では『義太夫節』(ぎだゆうぶし)を地に一体の人形を三人で遣(うか)う形態をとっています。山之口町の人形浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれる300年程前(岡本文弥全盛期)の芸態をそのまま伝承しているところが高く評価されています。
『人形浄瑠璃』とは、三味線と語りと人形あやつりが一体となり物語などを演ずる『人形芝居』をいいます。山之口町に残る『文弥節』といわれる浄瑠璃は、延宝〜元禄(1673〜1703年)の頃、大阪道頓堀の伊東出羽掾座(でわのじょうざ)の太夫として活躍した『岡本文弥』が語る『泣き節』『愁(うれ)い節』とも呼ばれる哀愁をおびた独特の節廻(ふしまわ)しをいいます。\
武蔵坊弁慶
左より、菊王、土井、能登守教経、佐藤兵衛次信(以上、門出八嶋)、鷲尾の三郎(出世景清)
能登守教経、佐藤兵衛次信(門出八嶋)
文弥節人形の古形を保ちながら継承している所は全国に四ヶ所程しかありません。麓文弥節人形浄瑠璃は江戸時代から明治初期に製作された27体の人形とともに現代に引き継がれている貴重な文化遺産です。平成7年(1995年)に国指定の重要無形民俗文化財。(以上、パンフレットより転載)
つまり、@太夫の語り調子が文弥調であり、語りの間合に三味線が入る。A人形は文弥節人形初期の『頭差込式』(かしらさしこみしき)で一人遣いである。B舞台形式は『高幕式』である。C浄瑠璃上演の幕間に演じられる『間狂言』(あいきょうげん)が残っている。伝承としては、参勤交代の藩主の道中の徒然(つれづれ)を慰めるために操ったとあります。
間狂言の人形『高砂婆』(右手前)
左より、弾正太郎(門出八嶋)、伊庭の十蔵(出世景清)、高砂婆、弥蔵、五郎、太郎(以上、間狂言)
 
 出世景清 
上演再現(出世景清の一場面)
『出世景清』は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃の演目で、貞享2年 (1685年) 大坂竹本座初演。全五段、時代物。のちに歌舞伎化され た。義太夫節の創始と位置づけられる画期的なもので、この作品までの浄瑠璃を『古浄瑠璃』、以後を『当流浄瑠璃』と呼ぶようにな りました。
出世景清の浄瑠璃台本 江戸期写本(中央)、文政9年(1826年)写本
 
小学生の練習風景
地元の小学生たちが平成24年3月18日の定期公演を目指して練習していました。
今年(平成23年)最後の練習です。
そのため、練習を続けてきていて、この日は今年最後の練習でした。大人たちは、これらの子供たちの中から将来の担い手が出てくることを大いに期待しているそうです。伝統芸能の伝承とともに青少年育成の一環としてとても貴重な活動だと思います。子供たちが扱ったり、また出張上演で待ち出したりすると人形が傷む可能性があるというので、子供たち用や出張上演用のために、別途27体の人形が準備されています。
人形の館を訪ねた日、幸運なことに、地元の麓小学校の19名の子供たちが練習をしていて、撮影させてもらいました。山之口麓文弥節人形浄瑠璃の公演は、3月、6月、9月および11月の年4回行われていますが、そのうちの1回を子供たちが上演するのだそうです。今回は、来年(平成24年)の3月18日(日)の第79回定期公演で、『出世景清』の”大仏殿普請の段”と”阿古屋住家の段”を上演することになっているそうです。
人形の一人遣いが特徴です。
上演する演目は、『出世景清』の”大仏殿普請の段”と”阿古屋住家の段”です。 
子供たち用や出張上演用のために別途準備されている27体の人形たち
 
参考(『出世景清』のあらすじ)
〔初段〕尾張の熱田大宮司のもとに身を寄せて、その娘小野姫をめとった平家の侍大将・景清は、源頼朝に対し主家の恨みを晴らそうと、かねてから機会をうかがっていました。まず畠山重忠を討とうと、東大寺大仏殿再興の指揮にあたっていた重忠に、人足にまじって近づくのですが、発見されてしまい、あやうくのところを切り抜けて逃げのびます。〔二段〕景清は、遊女・阿古屋とその間に生れた弥右、弥若という二人の息子のもとに身を寄せます。優しく景清を迎えた阿古屋ですが、小野姫から届いた景清あての偽手紙に嫉妬し、兄・十蔵の企てに乗り、幕府に居場所を知らせてしまいます。夜半、奉行所の手勢に囲まれた景清は、やっとのことで難を逃れます。〔三段〕幕府は景清をおびき出すために、大宮司と小野姫を捕らえ、拷問にかけます。耐えかねた景清は自首し、捕らえられてしまうのです。〔四段〕六波羅の牢獄につながれた景清を人目を忍んで慰める小野姫。阿古屋も子供を連れて詫びに来ますが、景清の怒りはとけません。思い余った阿古屋は景清の目の前で子供を刺し、自害していまいます。茫然とする景清を汚くののしる十蔵。ついに景清は牢を破って十蔵を殺害し、再び牢舎に入って、日夜、経典を読むのでした。〔五段〕頼朝は大仏供養のため天下の罪人を赦免しますが、景清だけは許されず、首をはねられようとします。ところが景清の首はその瞬間、観音様の御首に変っていたのでした。この不思議な出来事に、頼朝は景清を許し、日向国に戻すことを約束します。頼朝のもとに引き出された景清はこの時とばかり飛びかかりますが、果たせません。つのる頼朝への怨念を絶つために、景清は自ら両目をくりぬき、盲目となって日向へ下っていくのでした。(以上、あらすじは、人形の館のパネル『演目とその人形たち』から)
   
⇒ レポート ・文弥節人形浄瑠璃  
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