レポート  ・江藤新平   
 
− 江藤新平 −
今年(2013年)のとりわけ厳しかった夏の猛暑を引きずっていた残暑も9月も半ばになってやっと下火になりました。9月は本格的な収穫の秋への助走の月。スポーツや行楽に行事も多く、気力も充実へ向かうシーズンですが、鹿児島では9月24日の城山陥落によって終焉した西南戦争(西南の役)のことが思い起こされる時期でもあります。
  
西南戦争とそれへ続いた各地の士族の反乱では、有能な人材が志半ばにして亡くなっていったのが惜しまれます。亡くなった多くの人材の中で、ひと際悲惨さを持ってそう思われるのが、江藤新平(享年41歳)ではないでしょうか。それは、その死が残酷な処刑によるものであり、さらし首の画像さえ存在するからでしょう。
 
江藤新平(えとうしんぺい、1834〜1874年) 
佐賀藩士、政治家、初代司法卿。維新の十傑の一人。
 
 (1)生い立ち
 
肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀市八戸)に佐賀藩の下級武士の長男として生れる。家が貧しいでしたが、16歳で藩校弘道館に入学して苦学しながら猛烈に勉強に励みました。この頃、窮乏生活を強がって、『人智は空腹よりいずる』を口癖にしていたと言われます。
 
弘道館教授で儒学・国学者であった枝吉神陽が『義祭同盟』(尊王論を広げるための私塾で、しばしば長州の松下村塾と対比される)を結成すると、大隈重信・副島種臣・大木喬任・島義勇らとともに参加しました。ペリー艦隊やプチャーチン艦隊などが来航して通商を求めるという時勢の中で『図海策』という意見書を執筆。藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務めます。
 
 (2)志士活動
 
下級武士でしかない自分が志を遂げるには、藩内にいつまでいてもだめだと脱藩を決意します。脱藩して京都へと向かい、長州藩の桂小五郎(木戸孝充)や伊藤博文、公卿の姉小路公知と接触するなど、積極的に京都の情勢視察を行い『京都見聞』を著しました。
 
2ヶ月程で帰国。通常、脱藩は死罪でしたが、前藩主・鍋島直正の厚情により死罪を免れ、無期限謹慎の刑に処せられましたが、大政奉還によって赦免。新政府が誕生すると、副島種臣とともに京都に派遣させられ政治の表舞台に飛び出ます。戊辰戦争、江戸開城、上野戦争で活躍し、明治2年(1869年)維新の功によって賞典禄 100石を賜っています。
 
 (3)明治新政府での活躍
 
新政府が設置した江戸鎮台の長官の下の6人の判事の1人として会計局判事に任命され、民政や会計、財政、都市問題などを担当。江藤の献言によって江戸が東京と改称されます。一時、佐賀に帰郷して着座(準家老職)に就任。藩政改革に着手しますが、中央に呼び戻され、新国家の骨格づくりや民法、憲法など法令の整備などにおいて、才能を遺憾なく発揮。
 
明治5年4月(39歳の時)には、現行の法務大臣・最高裁長官・国家公安委員長に相当する初代司法卿に就任し、参議など数々の役職を歴任。その間に学制の基礎固め・四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備に功績を残しました。
 
 (4)下野から佐賀の乱、およびその後
 
明治6年(1873年)10月、朝鮮出兵をめぐる征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣とともに下野。明治7年(1874年)1月12日、民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意。
 
大隈・板垣・後藤らは、江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌(はま)るものであることを看破し、慰留の説得を試みますが、江藤はこれには全く耳を貸さず船便で九州へ向かいました。
 
 明治7年(1874年)
 1月13日 船便で九州へ向かう。
 2月11日 佐賀に入る。
 2月12日 佐賀征韓党の首領として擁立され、憂国党と共同して
      反乱を計画。
 2月16日 憂国党が武装蜂起し佐賀の乱が勃発。
 
佐賀の乱は、江藤新平を擁する征韓党と、島義勇らを擁する憂国党による旧佐賀藩士を中心とした反乱であり、以後続発する士族による乱のはじまりとなりました。乱を率いた江藤と島は、そもそも不平士族をなだめるために佐賀へ向かったのでしたが、政府の強硬な対応もあり決起することになりました。
 
しかし、朝鮮半島への進出の際には先鋒を務めると主張する征韓党と、封建制への復帰を主張する反動的な憂国党はもともと国家観や文明観の異なる党派であり、主義主張で共闘すべき理由を共有していませんでした。
 
そのため、両党は司令部も別であり、協力して行動することは少ないでした。また、藩内では、中立党の佐賀士族が政府軍に協力したほか、武雄領主・鍋島茂昌など反乱に同調しないものも多く、江藤らの目論んだ『佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず』という考えは藩内ですら実現しませんでした。
 
当初は反乱軍が優勢でしたが、大久保利通が、兵部(軍事防衛)と刑部(警察)両面の全権を帯びて、東京、大阪の鎮台兵を連れて佐賀にやってくると、反乱軍は大攻撃を受けて大破します。
 
 2月23日 征韓党に解散命令を下し、船で脱出し、薩摩へ向かう。
 3月1日 鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に
      会いに行き、2日まで滞在。激論を交わし、薩摩士族
      の旗揚げを請うが断られる。
 3月8日 飫肥(現在の宮崎県日南市)の小倉処平(3年後の明治
      10年、西南戦争において自刃)を訪ねる。小倉の尽力で
      渡船を雇い四国に向かう。
 3月15日 宇和島(愛媛県)に上陸。
 3月25日 土佐(高知)の林有造、片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起
      を説くがいずれも容れられなかった。
         
このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みますが、その途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還されます。手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものですが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となってしまいました。
 
 4月8日 江藤を裁くため佐賀裁判所が急設される。
 4月13日 司法省時代の部下であった河野敏鎌によって、『除族の
      上梟首の刑』を申し渡される。その日の夕方、嘉瀬刑場
      において処刑され、首が嘉瀬川から4キロ離れた千人塚
      に梟首される。
 
『梟首(きょうしゅ)の刑』は、江戸時代に庶民に科されていた6種類の死刑の一つで、打ち首の後、死体を試し斬りにし、刎(は)ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒(さら)しものにする公開処刑の刑罰で、晒し首、獄門とも言われました。
 
礼遇の慣習により武士に対しては梟首にすることは出来なかったため、まず士族の地位を剥奪(はくだつ)してからの刑でした。あまりにも残酷だというので、この刑は明治12年(1879年)に廃止されました。
 
征韓論で対立した江藤新平との確執で知られる大久保利通は、自らの日記(明治7年4月13日)に『江藤醜態 笑止なり』と江藤への罵倒ともとれる言葉を残しているそうですが、その大久保も4年後の明治11年5月14日に暗殺されます。そして、西郷はその一年前の明治10年9月24日、西南戦争に敗れて城山で自刃しています。
 
江藤は、明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれ、大正5年(1916年)贈正四位。佐賀市の神野公園には銅像があります。家族、子孫は以下の通り。
 
江藤新作(二男、衆議院議員、犬養毅の側近として活躍)、江藤夏雄(孫、満鉄職員、満州国官吏、衆議院議員)、江藤小三郎(曾孫、憂国烈士、昭和44年建国記念の日に国会議事堂前で自決、翌年の三島由紀夫の自決の決意に繋がったと云われる)、江藤兵部(曾孫、航空自衛官。最終位は航空総隊司令官(空将))など。
 
佐賀地方検察庁公式ホームページに次のようにあります。
 
〜 世間一般には、佐賀の役で反乱者の烙印のもとに処刑されたことが有名であるため冷たい目で見られがちである。今、佐賀県人の間では、その汚名をそそぎ、「民権の確立」に奮闘した歴史的偉材として、その功績を高く再評価すべきであるとの機運が高まっている。〜  
 
【参考サイト】
・江藤新平 - Wikipedia
・佐賀の乱 - Wikipedia
鈴木鶴子著「江藤新平と明治維新(下巻)」(e-Bookland)
宿毛市史【近代、現代編-土佐挙兵計画−佐賀の乱と江藤新平】
初代司法卿 江藤新平(佐賀地方検察庁公式ホームページ)
 
下記の旅行記があります。
■鰻温泉 〜 南洲翁ゆかりの地(4)− 鹿児島県指宿市
  → http://washimo-web.jp/Trip/Unagionsen/unagionsen.htm
  

  2013.09.18
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