♪南部牛追唄
童謡・唱歌の世界

    
    
旅行記 ・遠野物語を訪ねて − 岩手県遠野市  2010.03
 カッパ淵
雪解け水を含んだ澄んだ水が流れるかっぱ渕(写真上)
カッパ神を祀る祠(写真上)
捕まった河童 新屋という家があった。ある日、淵へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子が遊びにいった間に、河童がその馬を引き込もうとしたが、逆に馬に引きずれて厩(うまや)の前まできて馬槽に隠れた。家の者が馬槽が伏せてあるのを怪しみ、少し開けてみると河童の手が出てきた。村中の者が集まって、殺そうか許そうか評議を行った結果、今後は村中の馬に悪戯をしないという堅い約束をさせて放してやった。その河童は今は村を去って相沢の滝の淵に住んでいるという(『遠野物語』58話)
JR遠野駅前のカッパ象はいかにも怖そう(写真下)
カッパ淵
カッパ淵(カッパぶち)は、岩手県遠野市にあるカッパ(河童)の伝承地。かつてカッパが多く住み、人々を驚かしたという伝説がのこる場所で、全国唯一のカッパ狛犬で知られる常堅寺の裏手を流れる小川の淵をいいます。淵の水辺にはカッパの神を祀った小さな祠が建っています。カッパの神は乳の神であり、乳児のある母親が母乳の出がよくなるよう祈願するとよいとされ、祠には、女性が奉納した赤い布による乳房を模ったぬいぐるみのようなものが納められています。
カッパ伝説
赤顔のカッパ 他の土地の河童の顔は青いというが、遠野の河童は顔が赤い。佐々木氏の曾祖父が幼いころ友だちと庭で遊んでいたところ、三本ほどある胡桃(くるみ)の木の間よりまっ赤な顔をした男の顔が見えた、これは河童だったという(『遠野物語』59話)
入口を登りきった左奥に氏神、稲荷社が(写真上)
河童の子を孕んだだ話 川には河童がたくさん住んでいる。猿が石川にとくに多い。松崎村の川端に、二代続けて河童の子を孕(はら)んだ家があった。生まれた子は斬り刻んで一升樽に入れ、土中に埋めたという。女の所へ村の何某かという者が夜々通うという噂が立ち始めた。始めは、婿が浜の方へ駄賃附に行った留守の夜だけだったが、のちには婿と寝ている夜もくるようになった。河童だという評判がだんだん高くなり、一族が集まって守ろうとしたが何の甲斐もなかった。お産は難産であった。ある者が言うには、馬槽に水をたたえてその中で産めば安く産まれるというので、試してみると果たしてその通りであった。その子は手に水かきがあった。この娘の母もかつて河童の子を産んだことがあるという。この家如法の豪家で何某という士族であって、村会議員をしたこともあるという(『遠野物語』55話)
続石
続石(写真上)
弁慶が昼寝したという場所(写真上)
昔、弁慶はこの仕事をするためにために、大きな笠石を持ってきて、一旦涙石という石の上に乗せました。そうするとその石は、『おれは位の高い石であるのに、大石を乗せられその下になるなんて残念だ』といって、一夜中泣き明かしたそうです。そんなら他の石の上に乗せかえようといって、弁慶は二つ並んだ台石の上に乗せかえました。それが今の続石となりました。続石の脇に立っている泣石という石の名はその時からついた名で、今でも涙のように雫を垂らしているそうです。
続石(つづきいし)
綾織村山口の続石は、此頃学者の謂うドルメンというものによく似ている。二つ並んだ六尺ばかりの台石の上に、幅が一間半、長さ5間もある大石が横に乗せられ、その下を鳥居の様に人が通り抜けて行くことが出来る。武蔵坊弁慶の作ったものであるという(『遠野物語拾遺』11話)
 
※ドルメンとは、支石墓(しせきぼ)ともいい、新石器時代〜初期金属器時代において、世界各地で見られる巨石墓の一種。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとる(1)。
続石(写真上)
 卯子酉様
卯子酉様(うねどりさま)は、愛宕山の麓にある恋愛の神として知られている神社です。江戸時代、遠野の商人港屋平兵衛が、普代村鳥居の卯子酉明神を勧請して創建したと伝えられています。 昔は大きな淵があって、その淵の主に願をかけると、不思議に男女の縁が結ばれたと言います(『遠野物語拾遺』35話)。今では、祠の前にある木々の枝に、左手だけで赤い布を結びつけることができたら、縁が結ばれるといわれています。
五百羅漢
五百羅漢(ごひゃくらかん)は、江戸時代中期の天明期に刻まれた石像群です。遠野はしばしば冷害による凶作に見舞われ、天明2年(1782年)などの大飢饉において多くの被害者を出しました。心を痛めた大慈寺の義山和尚は、餓死した犠牲者の霊を供養するため、天明3年(1783年)から数年をかけて、苔むした自然の花崗岩に羅漢像を線彫りしました。五百羅漢は、今もひっそりと供養を続けています。
山口の水車
JR遠野駅から東北へ7〜8kmのところにある土淵町山口集落は、柳田國男に遠野の話を伝えた佐々木喜善の生家のある地であり、水車小屋やデンデラ野に、年間多くの観光客が訪れます。かつて農産物の脱穀や製粉などにおいて地域共同で使用された水車が、牧歌的な遠野の風景のシンボルの1つとして大切に保存されています。
 ダンノハナとデンデラ野
いわば姨捨(おばすて)の地だったデンデラ野(写真上左)
デンデラ野の茅小屋仕立のかまど(写真上)
デンデラ野
遠野にいくつかあるダンノハナという地名に相対して必ず蓮台野という地名があり、昔は60歳を超えた老人はすべてこの蓮台野へ追いやるという習慣がありました。いわば、姥捨山にいうことになりますが、老人だからといっていたずらに死んでしまうこともならず、老人たちは日中は里へ下りて農作をして糊口を得、夕方は蓮台野に戻り、互いに寄り添いながら余命が尽きるのを待ったといいます。蓮台野が訛ってデンデラ野になったそうです(『遠野物語』111話)
ダンノハナ
山口集落の佐々木喜善の生家の向かい側の、集落や水田が一望できる岡にあるのがダンノハナ(壇の塙、岡の上に塚を築いた場所の意)です。昔、館(たて)のあった時代には囚人を斬った場所で、現在は共同墓地になっており、佐々木喜善の墓があります。このダンノハナの中ほどに大きな青石があり、かってその下を掘った者がありました。大きな瓶が出てきましたが、村の老人に大いに叱られ元のままにもどしました。館の主の墓に違いないといわれています(『遠野物語』114話)
ダンノハナと佐々木喜善墓地の所在を示す看板(写真上)
ダンノハナから眺めた山口集落の風景(写真上)
オシラサマ
伝承園のおしら堂に安置されたオシラサマ(写真上)
伝承園の曲り家には繭が(写真上)
娘と馬の悲恋物語が『オシラサマ』伝説です。仲が良かった娘と夫婦になった馬は、父の怒りに触れて殺されてしまいます。共に昇天した娘と馬が神となったのが『オシラサマ』です。観光施設『伝承園』の曲り家『旧菊池家住宅』の奥座敷に設えられた『おしら堂)』には、千体のオシラサマが安置されています。
サムトの婆の碑(写真上)
さすらい地蔵
JR遠野駅から車で1〜2分走った消防署の横に白幡神社という小さな神社があります。その境内に置かれた『さすらい地蔵』は『女地蔵』で、昔若い男たちの力自慢に使われたお地蔵さまだそうです。かつがれては町のいろんな所に投げ捨て置かれたのでその名がつきました。ある時は繁華街に捨てられ、またある時は小道や草むらに捨てられていたので、ある人が『罰当たりなことだ』と思って元の場所に戻してあげたところ、『若者たちとせっかく楽しく遊んでいるのに、余計なことを!』と逆に気に触れたそうです。今は右写真のように、コンクリートで台石に固着されています。
馬っこつなぎの碑(写真上)
馬っこつなぎ
またこの日(6月1日)には、馬子繋(うまこつな)ぎという行事がある。昔は馬の形を二つ藁(わら)で作って、その口のところに粢(しとぎ)を食わせ、早朝に川戸の側の樹の枝、水田の水口、産土(うぶすな)の社などへ、それぞれ送って行ったものだという。今では藁で作る代わりに、半紙を横に六つに切って、それに版木で馬の形を二つ押して、これに粢を食わせてやはり同じような場所に送って行く(『遠野物語拾遺』298話)
 
馬っこつなぎの二頭の馬は、一頭が神馬として、田の神様が乗る馬で、もう一頭は食糧を運ぶ馬として、作柄の見回りや遠い国で開かれる神様の集まりへのお伴をする馬だといわれています(2)
サムトの婆(ばあ)
松崎村の寒戸(さむと)という所の民家で、若い娘が梨の樹の下に草履を置いたまま行方不明になりました。それから30年後のある日、親類知人がその家に集まっているところに、一人の極めて老いた老婆が訪ねてきました。どうして帰ってきたかとたずねると、人々に逢いたかったからだといいます。そして、また行かねばならないといい再び姿を消しました。その日は風が烈(はげ)しく吹く日だったので、遠野の人々は、風の騒がしい日は、”きょうはサムトの婆が帰って来そうな日”だというようになりました(『遠野物語』8話)。この話は本当にあった話だともいいます。
さすらい地蔵(白幡神社)(写真上)
五日市のキツネの関所
『遠野物語』にも狐(キツネ)が何度も登場します。『五日市のキツネの関所』は、JR遠野駅から車で6〜7分走った国道340号線沿いにあります。碑が立っていて説明があります。
  
町場にくる村人の楽しみは茶屋酒を飲みながら、ほら話を吹きまくることでした。帰り道、かかさまへの土産の五十集(いさば=塩魚や干魚)を首にかけ、夜更けにこの辺りを通ると、美しい女が『風呂に入って酒っこあがんせ』と微笑みながら誘いかけ・・・・夜が明けるとわが身は泥田や肥溜めにつかり、土産はとうに消えているのでした。
国道340号線沿いにある『キツネの関所』の碑(写真上)
春泥に道ゆずり合う遠野かな  ワシモ   
         
『遠野物語』(とおのものがたり)
柳田國男が1910年(明治43年)に発表した説話集。日本民俗学の黎明を告げた名著である。岩手県遠野市出身の小説家・民話蒐集家であった佐々木喜善によって語られた遠野盆地〜遠野街道に纏わる民話を、柳田が筆記・編纂し自費出版した初期の代表作。その内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、死者などに関する怪談、さらには祀られる神様、そして行事など多岐に渡る。『遠野物語』本編は119話で、続いて発表された『遠野物語拾遺』には、299話が収録されている。左写真は、角川ソフィア文庫。
  
佐々木 喜善(ささき きぜん)

遠野市土淵の裕福な農家に育つ。近所でも名うての語り部だった祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。上京して現在の東洋大学に入学するが、文学を志し早稲田大学文学科に転じる。明治38年(1905年)頃から小説を発表し始める。明治41年(1908年)頃から柳田國男に知己を得、喜善の語った遠野の話を基に柳田が『遠野物語』を著す。明治43年(1910年)に病気で大学を休学し、岩手病院へ入院後郷里に帰る。その後も作家活動と民話の収集・研究を続ける傍ら、土淵村村会議員・村長を務めるが、村長職という慣れない重責に対しての心労が重なり職を辞し、仙台に移住。以後生来の病弱に加え生活は困窮し、48歳で病没。晩年、宮澤賢治とも交友があった。以上、ウィキペディアより転載。
     
   
  【参考サイト】
  (1) フリー百科事典『ウィキペディア』 
  (2) これなあに?
  (3)柳田国男著『遠野物語付・遠野物語拾遺』(角川ソフィア文庫、平成20年5月新版15版発行)
⇒  旅行記 ・遠野の曲り家 − 岩手県遠野市
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