♪花の歌(ランゲ)
ぴあんの部屋
徳之島鹿児島県大島郡
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鹿児島から南へ約380kmの奄美大島からさら約100km南下した海上に浮かぶ面積約247.77km2、周囲84kmの徳之島は、約27,000の人々が暮らす島で、鹿児島県大島郡徳之島町、伊仙町、天城町の3町があります。徳之島といえば、長寿の島(最近では出生率日本一の島でもあります)、闘牛、高橋尚子ロードや、犬の門蓋、ムシロ瀬などの自然景観で知られる島です。旅したのは2008年の12月で、奄美諸島の島にも冬には冬の雰囲気がありました。徳之島の名所旧跡と自然の風景をアップロードしました。                              (旅した日 2008年12月)
    
    
徳之島
与名間ビーチ
徳之島の産業は農業が中心で、さとうきびを基幹作物に、ばれいしょ、石川さといも等の野菜や、肉用牛との複合経営が行われています。徳之島の有名人とて、第四十六代横綱朝潮太郎、元大相撲小結の旭道山、医療法人徳洲会理事長徳田虎雄氏(奄美諸島での島々でも都会と同じレベルの医療を受けられるそうです)、 長寿世界一になった泉重千代さんと本郷 かまとさん。1976年に生まれた、NHK職員の山下さん家の五つ子ちゃん(今年で33歳)などが上げられます。
徳之島空港(写真上) 花徳の風景(写真下)
    
    
闘牛場
伊仙闘牛場(写真上)
全国に名高い徳之島の闘牛は、島内(伊仙町、天城町、徳之島町)に13ケ所の闘牛場があって、正月、5月連休、10月中旬の本場所と地方場所をあわせると年20回以上の大会が開催されている。年3回の本場所は、全島一優勝旗争奪戦大会で、徳之島3町もちまわりで開催され、闘牛ファンだけでなく島内外からの観客で賑わうそうです。徳之島町亀徳にある伊藤観光ドーム(写真左・下)は、4000人収容できる屋根つきの闘牛場で、徳之島闘牛資料館も併設されています[1][2]
伊藤観光ドーム(写真上・右)
徳之島の闘牛は、約500年前の藩政時代から全島の闘牛大会が行なわれていたといわれます。徳之島では闘牛大会のことを『慰(なぐさ)み』と言うそうです。砂糖地獄に苦しめられた農民が税を完納できた収穫の喜びを祝って行われたと言われ、娯楽の少ない島民にとって唯一の楽しみだったそうです。闘牛は、現在でも徳之島の最大の娯楽文化であり、島人の心を癒し、島人元気を与えてくれています[1][2]
泉重千代翁之像
長寿の里公園
徳之島は、泉重千代さん、本郷かまとさんといったギネスブック認定の世界一の長寿を2人も生んだ『長寿の島』として知られています。伊仙町阿三(あさん)には泉重千代の像(写真右)が建てられています。
 
泉重千代(しげちよ)
=慶応元年(1866年)伊仙町阿三に生れる。昭和54年114歳で長寿世界一(ギネスブック)。昭和61年2月120歳237日で死去。
本郷 かまと=明治20年(1887年)伊仙町木之香(きのこ)に生れる。平成14年114歳で長寿世界一(ギネスブック)。平成15年10月31日116歳で死去。
   
   
犬田布岬(戦艦大和慰霊塔)

この慰霊塔は、1968年(昭和43年)に全国的な募金により完成しました。完成以来現在に至るまでに毎年4月7日には多くの遺族の方々が来島され盛会裡に慰霊祭が執り行われていますが、築後40年の歳月の中で、塩害・風化が激しく、倒壊の危機にさらされており、再建のための募金活動が行なわれています[3]【備考】サイトなどで、戦艦大和は、『犬田布岬沖合いで撃沈され、今も海底に眠っている』などとありますが、実際は、長崎県男女群島女島南方 176km(鹿児島県枕崎市の西南西約 200km)の水深345m の地点に沈没しています[4]
島の南西部、東シナ海に向かって三角状に突き出ている犬田布(いぬたぶ)岬は、琉球石灰岩の海触崖と鋭く切り立つ断崖が見所の徳之島一の景勝地で奄美十景のひとつです。海に向うなだらかなスロープには高麗芝が青々と自生し、遊歩道にはアダンや海浜植物が茂っています。
 
その犬田布岬に、『戦艦大和を旗艦とする艦隊戦士慰霊塔』が建っています。戦艦大和は、米軍航空隊の攻撃により昭和20(1945)年4月7日14時22分に横転して大爆発を起こし沈没しました。
   
   
犬田布騒動記念碑
犬田布騒動
犬田布騒動(いんたぶそうどう)は、1864年4月23日(文久4年3月18日)に徳之島の犬田布村で起きた百姓一揆。
 
サトウキビを産する奄美諸島は当時の薩摩藩の過酷な砂糖政策により搾取を受けており、砂糖総買入制によって島民による砂糖の売買が禁じられていました。騒動の発端は農民の一人新山為盛が砂糖の横流しの疑いにより捕らえられ拷問を受けたこととされています。為盛救出のため犬田布の農民150人余は暴動を起こし、仮屋を包囲、役人を追い、森に7日間篭城しました。奉行所も村民全員を罪人にはできず、7人を島流しして無血解決しました。この騒動は全島に知れ渡り、その後の砂糖取締りは大いに緩和されたといわれています。
 
のちにこの騒動は島唄『徳之島節』の歌詞として歌われるようになりました。1964年には犬田布岬において百年祭が挙行され、犬田布騒動記念碑が建てられました(写真上・左)。 また、これを題材として戯曲『犬田布騒動紀』が伊集田実により作られました(以上、フリー百科事典『ウィキペディア』[5]より転載)
  
  
西郷隆盛謫居跡
西郷隆盛と徳之島
安政の大獄時、薩摩藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させます。三年後、西郷は召還されますが、島津久光の不興を買い再び徳之島へ遠島となります(同時に、村田新八は喜界島へ遠島)。西郷は、文久2年(1862年)6月11日、山川を出帆。屋久島で7、8日程風待ちをし、奄美へ向かい、やっとの思いで7月2日に徳之島湾仁屋に到着しました。偶然にも、この渡海中の7月2日に愛加那が菊草(菊子)を生んでいます。
徳之島岡前(現天城町岡前)の勝伝宅に落ち着いていた8月26日、徳之島来島を知らされた愛加那が奄美大島から、菊次郎と菊草の子供2人を連れて西郷のもとを訪れたそうです。久しぶりの親子対面を喜んでから数日後、さらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届きます[6]
 
 
写真左は、西郷隆盛謫居跡のすぐ近くにある岡前曖(あつかい)役所跡(今の役場)。西目間切は、薩摩藩統治時代この地域の行政の中心地でした。
    
    
犬の門蓋(じょうふた)
犬の門蓋
東シナ海に面した海岸線一帯にある犬の門蓋(いぬもじょうもん)は、季節風や荒波によって長年にわたり浸食された断崖・メガネ岩といわれる奇岩が所々に点在します。名前の由来は、昔大飢饉のおり犬が群れをなし人畜に危害を及ぼしたので、これを捕まえ海中に投げ捨てたことからついたと伝えられています。大海原に水平線が広がり夕日の眺めも素晴らしく、訪れる人を魅了しています。
尚子ロードと与名間ビーチ
尚子ロード
2000年シドニーオリンピック女子マラソンで金メダルに輝いた高橋尚子さんが練習していた天城町与名間を起点とする徳之島北部一周31kmコース(写真左)が尚子ロードと命名され、与名間のトレーニングの地に記念碑が建てられました。小出義雄監督の詩も刻み込まれています(写真上)。尚子さんは2008年10月に『引退しましたが、2009年2月には、尚子さんの功績をたたえる記念碑も建てられました。
与名間ビーチ
島の北西部にある天城町の与名間ビーチは、夏期に海水浴やマリンスポーツで賑わう代表的なレジャースポットです。鉄人達の島トライアスロンIN徳之島大会のスイム会場として知られ、バンガロー(宿泊施設)や海洋スポーツができるプールやキャンプ場、パターゴルフ、バンガローなどが併設されています。また、シュノーケルで魚がみられるそうです。写真右は、与名間ビーチの公園で撮影。
    
    
ムシロ瀬
徳之島の北西に位置し、その名のとおり海岸にあたかもムシロ(筵)を敷きつめたように巨岩が連なった海岸で、サンゴ礁の多い奄美諸島では珍しい花崗岩が広がり壮大な景観を呈しています。
【参考にしたサイト】
[1]全国闘牛サミット協議会[全国の闘牛:徳之島町(鹿児島県)
[2]闘牛文化
[3]戦士慰霊塔再建募金
[4]大和 (戦艦):フリー百科事典『ウィキペディア』

[5]犬田布騒動:フリー百科事典『ウィキペディア』
[6]西郷隆盛:フリー百科事典『ウィキペディア』
 
 
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