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旅行記 ・忠元公園 − 鹿児島県伊佐市 2016.04.01
ただもとこうえん
忠元公園
鹿児島県北端の内陸部に
あって北側を熊本県と接する伊佐市(いさし)の市役所所在地・大口(おおくち)。
その市街地を見わたせる小高い丘に忠元公園はあります。
忠元公園は桜の名所。
ソメイヨシノほか約1000本が植わり、桜並木は2キロメートルにも及び、桜の見頃になると
千数百個の提灯が燈り、夜桜を楽しむ客でにぎわいます。
明治41年に
新納忠元(にいろただもと)公没後 300年記念事業として、忠元神社から諏訪馬場に通ずる
桜の道路公園が造成されましたが、昭和20年に皆伐。
その後まもなく
復活の気運が高まり、忠元公園復活期成同盟会をはじめ、自治会、郷土出身有志の協力により、
逐次植樹され、昭和32年に植樹を終えました。
その後も各種団体等による
植樹が行われ、平成2年に『日本桜の名所百選』に選定されました。また、平成10年からは桜並木を
保存するため、オーナー制が導入され、植樹が続けられています。
にいろただもと
新納忠元
新納忠元公は、大永6年(1526年)志布志で生まれ、
幼少の頃から島津日新公(じっしんこう、島津氏中興の祖・島津忠良)に仕え、学問や武芸の教えを受け
島津氏の三州平定や九州統一の戦いなどで武勇とその名声を轟かせます。
また、学問にも励み、
文武兼備の優れた武将でした。永禄12年(1569年)初代の地頭として大口城に入り、
40年近くその任に当たり85歳でなくなりました.。
太閤秀吉の朝鮮遠征(文禄・慶長の役)に
ともない薩摩から義久公・義弘公・忠恒公を始めとして一万余騎の精兵が朝鮮に渡りました。戦争が10年に
近い長期間に及ぶに至って、後に残留した青少年の風紀が乱れてきます。
留守居役を任された新納忠元は
『二才咄格式定目』(にせばなしかくしきじょうもく、青少年が日常守るべき数条の規約)を定めて実践させました。
そのことが後に、日新公の教えを酌んだ『郷中教育』へとつながっていきました。
文武兼備の名将、
忠元公の魂は忠元神社(写真)にまつられ、土地の人から親しまれ、家内安全及び
学問武芸祈願の神社として崇められています。
上の写真で、鬼瓦は『天保15年(1844年)
忠元神社創建時の本殿鬼瓦』であり、手水鉢は『同年忠元神社創建に伴い、鹿児島藩(薩摩藩)
家老調所笑左衛門広郷が奉納した手水鉢』であるとあります。
【補遺】 
◆島津征討の目的を果たした豊臣秀吉が川内(現薩摩川内市)からの帰途、天正15年(1587年)5月26日、大口城主・新納忠元と会見した陣営跡(天堂ヶ尾(関白陣))が伊佐市大口針持にあります。この会見で、忠元は秀吉に向かって『主人の命令さえあればすぐにでも敵対する。』と答え、秀吉が酒盃を呑み干した忠元の白髭を見て『鼻の下にて鈴虫ぞなく』と詠んだところ、忠元は『上髭をちんちろりんとひねりあげ』と当意即妙に上の句をつけて返歌し、秀吉を感嘆させたという話はあまりにも有名です。◆忠元公が定めた『二才咄格式定目』(にせばなしかくしきじょうもく)は、青少年が日常守るべききまりで、以下の条項(現代語訳)からなります。(1)まず武道を修練せよ。(2)いつも武道について討論せよ。(3)よその人とは用件外の無駄話はするな。(4)組織内で十分に話し合いをせよ。(5)友だちであっても悪口を言うな。(6)分からないときは自分勝手な行動をせず、話し合って行動せよ。(7)うそを言うな。(8)忠孝の道は、口先だけではなく、人におくれないように実行せよ。(9)山坂に負けない体力をつくれ。(10)二才(にせ、青少年)とは、年齢・体格服装ではなく精神と実行力だ。
 
 
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