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旅行記 ・四天王寺 − 大阪市 2014.06
してんのうじ
四天王寺
石鳥居(重要文化財)
石鳥居(重油文化財) 中心伽藍の西側の西大門のさらに外に立つ石鳥居は、永仁2年(1294年)にそれまでの木造鳥居を石鳥居にあらためたもの。寺に鳥居は神仏習合時代の名残です。扁額(へんがく)には『釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心』(お釈迦様が説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である)と書いてあります。扁額は箕(みの)の形をしており、塵取りのように全ての願いをすくい取って漏らさない阿彌陀如来の本願を表しています。
西大門(極楽門)
西大門(極楽門) 西大門は推古元年(593年)の創建で、昭和37年(1962年)に再建されてからは、極楽に通ずる門の意味から極楽門と呼ばれるようになりました。この西大門の真西にある石鳥居には『極楽浄土の東門の中心に当たる』と書かれており、春秋彼岸の中日には、西大門より石鳥居の中心に沈む夕日を拝む日想観が今なお行われているそうです。この西大門の柱に『転法輪』が設置されているのは、この寺が境内が釈迦如来が法輪(仏教の教義)を転ずるところであることを示しています。
中心伽藍 
中心伽藍(1)(ちゅうしんがらん) 南から北へ中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、中門の左右から出た回廊が講堂の左右に達する『四天王寺式伽藍配置』を踏襲しています。これらは第二次世界大戦後に再建され、1963年(昭和38年)に落慶法要が営まれた鉄筋コンクリート造建築ですが、日本の飛鳥時代、高句麗、六朝などの建築様式を加味して創建当時(6世紀末)の様式に近付けようとしたものです。
 
五重塔と金堂と講堂
 四天王寺(1)(してんのうじ) 大阪市天王寺区四天王寺にある寺院で、聖徳太子建立七大寺の一つとされています。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)。『日本書紀』によれば、推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。『金光明四天王大護国寺』(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。当寺周辺の区名、駅名などに使われている『天王寺』は四天王寺の略称です。
回廊に囲まれた伽藍配置
宗派は天台宗に属していた時期もありましたが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺でした。戦後間もない1946年、日本仏教の祖とされる『聖徳太子建立の寺』であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から天台宗より独立して、和宗を創立。四天王寺は、その総本山として、仏法興隆と太子精神の高揚を本願とする寺として再生されました。たび重なる戦火や災害に見舞われ、多くが焼失しましたが、現在の建物は創建当時(飛鳥時代)の様式が忠実に再現されています。
 中門(仁王門)と背後に五重塔
歴史(1) 四天王寺,、蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものです。四天王寺の草創については、『日本書紀』に次のように記されています。用明天皇2年( 587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生しました。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦します。
仁王(吽形)密迹金剛力士(中門)
仁王(阿形)那羅延金剛力士(中門)
そのため、蘇我軍は三たび退却。聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどのおうじ、当時14歳)は、蘇我氏の軍の後方にいましたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、『もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる』という誓願をしました。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は『えのき』の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わりました。
阿弥陀堂
その6年後、推古天皇元年( 593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかりました。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後でした)。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数ありますが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは、四天王寺と法隆寺のみとするのが妥当であると考えられています。
北鐘堂
法隆寺が飛鳥・奈良時代にさかのぼる建築や美術工芸品を多数残すのに対し、四天王寺はたび重なる災害のため、古い建物はことごとく失われました。聖徳太子は、日本仏教の祖として、宗派や時代を問わず広く信仰されてきました。太子の創建にかかる四天王寺は、平安時代以降、太子信仰のメッカとなりました。また、四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格も加えていきました。
回廊と五重塔
太陽の沈む『西』は死者のおもむく先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられ、四天王寺の西門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として、多くの信者を集めました。現在も寺に伝わり国宝に指定されている『四天王寺縁起』は、こうした信仰を広めるのに大いに力がありました。『四天王寺縁起』は伝承では聖徳太子の自筆とされ、寛弘4年(1007年)、金堂内で発見されたとされますが、実際には後世の仮託で、発見時からさほど隔たらない平安時代中期の書写とするのが通説だそうです。
南鐘堂
四天王について(2) 四天王は、仏教において、欲界の六欲天の中の初天に住む4人の守護神をいいます。仏教の守護神である帝釈天(たいしゃくてん)に仕え、須弥山(しゅみせん、古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山のこと)の中腹にいて四方を守護する。東方を守護する持国天(じこくてん)、南方を守護する増長天(ぞうじょうてん)、西方を守護する広目天(こうもくてん)、北方を守護する多聞天(たもんてん、毘沙門天)をいいます。
転法輪(西大門)
転法輪(てんぽうりん) 転法輪とは、法輪(仏教の教義)を転ずる意で、釈迦がブッダガヤで悟りを開かれた後、鹿野苑(ろくやおん)において初めて説法をした(法輪が転じた)ことに始まり、その説法が過去・現在・未来と無限に続くことを表しています。仏教の教義を示す物として八方向に教えを広める車輪形の法具として具現化され、卍と共に仏教のシンボルとして信仰されています。合掌し、『自浄其意(じじょうごい)』(心が清浄になりますように)と唱えて右に回します。
 一回一誦
一回一誦 (いっかいいちじゅ)  これを一回、回すと般若心経を一巻となえたことになるというもの。チベット仏教のマニ車(マニぐるま、摩尼車)を思い出させます。番匠堂(ばんしょうどう)は、日本における大工技術の始祖として番匠(大工)達から尊崇されている聖徳太子の曲尺を持つ像が祀られており、前に建つ「六字名号」の石碑は、一画、一画を鋸・錐・鉋など大工道具をデザインした文字で書かれています。毎月22日のみに開帳されます。
番匠堂
【参考サイト】
(1)四天王寺 - Wikipedia
(2)四天王 - Wikipedia
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