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旅行記 ・スフォルツェスコ城、美術館 〜 ミラノ − イタリア(6) 2014.07
スフォルツェスコ城
ルネッサンス様式の代表的建築であるスフォルツェスコ城
スフォルツェスコ城、または
スフォルツァ城は、ミラノにあった城塞(イタリア語では Castello Sforzesco)で、現在は、
ミラノ市立美術館としても公開されています。
円形の物見櫓(ヴィスコンティ家の紋章が見えます。)
ミラノを首都とした
ミラノ公国(1395〜1535年)は、最初ヴィスコンティ家(1395年〜1402年)によって治められていましたが、
のちに、スフォルツァ家(1450〜1499年)に引き継がれていきます。
たくさんの穴は、煉瓦を積むときの足場のための穴だそうです。
元々はヴィスコンティ家の
居城として建てられた城を、スフォルツァ家のフランチェスコ・スフォルツァが
改築して城塞としたものです。
湿気のないミラノの夏の日差しが柔らかく感じられます。
レオナルド・ダ・ヴィンチや
ドナト・ブラマンテ(イタリアの盛期ルネサンスを代表する建築家)の参加を得て、
1450年に建造が始り、1466年に完成していました。 
側面の城門(ここにも紋章が)
もともとは、星型の形状の
広大な城郭でしたが、現存しているのは元々の面積の1/4程度以下であり、
残りの敷地は公園や道路となっています。
正門は高い塔(フィレーテの塔)になっています。
正門は、109メートルという高い
搭(フィレーテの塔)になっていて、そこからレンガ積みの
城壁がぐるりと取り囲んでいます。
正門(フィレーテの塔)
ミラノ公国
ミラノ公国(Ducato di Milano)は、1395年から1535年(途中で断続がある)まで、ミラノを首都として存在した公国でした。『王国』が一般に『国王』を君主として有する国であるのに対し、『公』即ち貴族を君主として有する国を『公国』(こうこく)といいます。
 
12世紀、北イタリアの主要都市は自治権を守るため同盟(ロンバルディア同盟)を結び神聖ローマ帝国と坑戦して勝利し、自治共同体の最盛期を迎えます。そんな中でミラノでは、ヴィスコンティ家が1311年にはすでにミラノの僭主(せんしゅ)となっていました。僭主とは、本来の皇統、王統の血筋によらず、実力により君主の座を簒奪し、身分を超えて君主となった者のことを言います。ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1378〜1402年)は一族の広大な領地を統合した、そして1395年、神聖ローマ皇帝ヴェンツェルからミラノ公の称号を授かり、ミラノ公国が成立しました。1386年ミラノ大聖堂の建設に着手。ジャン・ガレアッツォが死ぬと、息子のジョヴァンニ・マリーアは父が征服した領地の維持ができず、公国が解体しました。
 
ミラノの守護聖人・聖アンブロージョ
ジョヴァンニ・マリーアは暗殺され、弟のフィリッポ・マリーアが後を継いだ。公国は再建されますが、フィリッポ・マリーアが亡くなると、傭兵隊長としてヴィスコンティ家に仕えていたフランチェスコ・スフォルツァ(1401〜1466年)が当主の娘と結婚し、1450年ミラノ公となります。ミラノ公国は、1494年以降フランスとスペインがイタリア半島を巡って相争うイタリア戦争に巻き込まれ、その戦場となり荒廃した。1535年、ミラノはスペインによって征服され、独立を失った。フランチェスコ・スフォルツァの四男のドヴィーコ・スフォルツァは、レオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンとして30歳のダ・ヴィンチをミラノに呼び寄せ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のドミニコ会修道院の食堂の壁に『最後の晩餐』を描きました。
 正門をくぐって美術館へ
 フィレーテの塔の中央の
白い石像は、ミラノの守護聖人である聖アンブロージョ。アンブロージョは
4世紀にミラノの司教であった人物でした。
正門をくぐってまっすぐのところに博物館の入口があります。
 門をくぐると四隅に円形楼を持つ
巨大な城壁に囲まれた広い中庭が広がります。博物館の入口城は正門をまっすぐ進んだところにあります。
中央にある高い塔が目印です(写真上)。
四隅に円形楼を持つ城壁
昔内堀だったところも、今は水もなく
緑が目にしみるばかりですが、かつては至るところに敵を塞ぐ工夫のあった城塞でした。
砲弾として使われた石の玉がおかれていました(写真下)。
砲弾として使われたという石の玉
古代美術館
古代美術の入口(開館を待っているところです。)
スフォルツェスコ城の中には、
ミラノ市立の古代美術館、絵画館、古代エジプト博物館、装飾芸術美術館、
アンティーク家具・木彫博物館、そして楽器博物館があります。
古代のいろいろオブジェが陳列されています。
彫刻、絵画、古代エジプト美術、
家具、武器などが展示されています。中でも、ミケランジェロが息を引きとる3日前まで
彫り続けたという『ロンダニーニのピエタ』は必見です。
『キリストの復活』を意味という天井画
 展示品もさることながら、
天井画や壁画の美しさにうっかりと魅了させられます。暗い部屋の天井に
薄いブルーや淡い黄緑色の彩色。目を奪われます。
ヴィスコンティ家の紋章(冠を戴く黒鷲と大蛇)
ヴィスコンティ家の紋章 ヴィスコンティ家の紋章の『人を飲み込む大蛇(ビショーネ、biscione)』は、ヴィスコンティ家の先祖が森に住む大蛇を退治したことに由来とするとか、彼らの先祖が十字軍遠征の際に、イスラム教徒がつけていた紋章をはぎ取ったものであるとか言われています。ミラノ発祥の自動車メーカー、アルファ・ロメオはミラノ市の白地に赤い十字架とヴィスコンティ家の紋章のビショーネを組み合わせたシンボルマークを使用しています。
『旗の間』の天井絵
宗教行事などに使われていた大きな旗のある『旗の間」
ベルナポ・ヴィスコンティの棺を飾る騎馬像
ベルナボ・ヴィスコンティ イタリア・ミラノの僭主(在位1349〜1385年)。2代後のジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが、初めててミラノ公の称号を得てミラノ公国が成立。ヴィスコンティ家の絶頂期を迎えます。死後、ベルナボの墓を飾る彫像として、彫刻家ボニーノ・ダ・カンピオーネの手になる騎馬像(写真上・右)が制作されました。騎馬像は当初、ベルナボの墓があるサン・ジョヴァンニ・イン・コルカ地下聖堂に置かれていましたが、現在はスフォルツェスコ城に置かれています。(参考:Wikipedia)
こちらは、雰囲気のある壁画
 
ミケランジェロの遺作となった『ロンダニーニのピエタ』
ピエタ (ミケランジェロ)
ミケランジェロ(1475〜1564年)は『ピエタ』(Pieta、慈悲などの意)を題材とする彫刻を生涯に4体制作している。ピエタは聖母子像の一種であり、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストとその亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことである。4作のうちの第1作の『サン・ピエトロのピエタ』(1498〜1500年、サン・ピエトロ大聖堂)は、他の芸術家によって同じ題材で数多く作られたピエタと比較して並べるもののない傑作であり、これによってミケランジェロの名声は確立されたといわれています。
『ロンダニーニのピエタ』
『ロンダニーニのピエタ』(1559年〜 未完成) 
ミケランジェロの第4のピエタ、彼が生前最後に手がけたこの大理石彫刻は、1952年にミラノのスフォルツァ城博物館に収蔵されるまでローマのロンダニーニ邸の中庭に置かれていたことから、『ロンダニーニのピエタ』と呼ばれています。『ロンダニーニのピエタ』に最初に取り組み始めたのは『フィレンツェのピエタ』(1547年?〜 未完成、フィレンツェ、ドゥオーモ博物館)とほぼ同時期であったらしいが、ミケランジェロは一度作業を中断して晩年(1559年頃)に至ってから再開し、晩年の素描や自分の墓に飾るつもりであった『フィレンツェのピエタ』と同様、みずからの死の予感や宗教的霊感を強く抱きながら制作に取り組みました。腰が曲って頭を上げることすらままならず、さらには視力を失いながらも手探りで鑿を振るい、病に倒れる前日(息を引き取る3日前)まで制作を続けたと伝えられています。この像を後ろから見ると、マリアがイエスを抱いているというよりも、イエスがマリアを背負っているかのように見えます。これはイエスを亡くして悲しむマリアをイエスの霊が慰めている様を表現するために、両義的な解釈が可能となるようミケランジェロが意図したのだといわれています。〜 以上、 Wikipediaより抜粋。
 『ロンダニーニのピエタ』(後ろから見る)
出口への途中の吹き抜け
レオナルド・ダ・ヴィンチらの参加を得て、
城壁としてスフォルツェスコ城が完成したのが1466年のことでした。しかし、1499年にミラノ公国は終焉を迎え、
スフォルツァ家が居城したのはわずか33年間に過ぎませんでした。
ルネッサンス様式の代表的建築の煉瓦積み
フランスとスペインがイタリア半島を巡って
相争うイタリア戦争の戦場となって以来城は荒廃。長い間放置されていたのが公園整備によって見直され始めたのは
19世紀の終わりになってからでした。そして、20世紀になってから博物館として整備されました。
草花がきれいに植え込まれている中庭
センピオーネ公園
センピオーネ公園に憩うミラネーゼたち
スフォルツェスコ城の裏側に出ると隣接して大きな公園『センピオーネ公園』(Parco Sempione )が広がっていて、ミラネーゼたちの憩いの場となっています。ミラネーゼ(milanese)は、”ミラノの人””ミラノっ子”の意味です。フェンスに囲まれた園の面積は、およそ45万平方キロメートルもあります。もともとこの公園は、ヴィスコンティ家の農園だったのだとか。園内にはうっそうした木々が木陰をつくっていました。
当時の面影を残す大昔の城壁
凱旋門『平和の門』 中央の噴水の向うに、ルイジ・カニョーラ侯爵の設計だという華麗な凱旋門『平和の門』(1838年に落成)が見えます。ナポレオンに捧げるために、1807年に着工された新古典様式の凱旋門で、ナポレオンがミラノに侵攻した際、この門をくぐって街に入るはずでした。しかし、ナポレオンは失脚。
ルイジ・カニョーラ侯爵の設計による凱旋門『平和の門』
その後の1815年にミラノを支配したオーストリア皇帝が『平和』を讃える門として、1838年これを完成させました。ヴィットリオ・エマヌエーレ2世によってミラノがオーストリアの支配から解放されると、1859年に『イタリア独立』を讃える門として献納し直されて、碑文も独立解放賛辞へと変更されました。その時々の統治者によって、その意味づけが変遷した門でした。
カステッロ広場
スフォルツェスコ城の前にあるカステッロ広場
ドゥオーモ(大聖堂)の前の広場から北西へのびる通りをまっすぐ5〜6分歩いた突き当りに、スフォルツェスコ城の前のロータリーであるカステッロ広場があります。イタリア統一を推進した軍事家ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)の騎馬像が堂々とそびえています(写真上)。白い建築物は、2015年に開催されるミラノ万博のモニュメントです
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