♪アリラン(朝鮮民謡)
童謡・唱歌の世界
世界遺産昌徳宮 − 韓国ソウルの旅(4)
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昌徳宮(チャンドックン)は、朝鮮王朝の正宮である景福宮の離宮として1405年に太宗(3代王)によって建てられた宮殿でしたが、王たちは主にこの昌徳宮に居住したため実質的な法宮(王が住む第一の宮廷)としての役割を果たしました。1595年に始まった豊臣秀吉の文禄・慶長の役(韓国では壬辰倭乱という)で漢陽(現在のソウル)のすべての宮殿が焼失すると、景福宮はその土地が不吉だという理由で再建されず、1610年にこの昌徳宮が再建され、その後景福宮が再建されるまでの270余年間、法宮として使用されました。1997年にユネスコ世界文化遺産として登録され、韓国を代表する宮廷となっています。                                       (旅した日 2009年09月)
     
     
敦化門
敦化門(トンファムン)
昌徳宮の正門である敦化門(トンファムン)は、1412年に建立されましたが、文禄・慶長の役の時に全焼したました。今の敦化門は、光海君(15代王)が即位した1608年に再建されたもので、現存している宮殿の正門としては最古のものです。敦化門は、王の行列等の儀礼がある時に出入口として使用し、臣下たちは西側の金虎門から出入りしました。当時、敦化門の二階には鐘と太鼓がぶら下げらてあり、通行止めの時間には鐘を鳴らし、解除時間には太鼓を打ったといわれます。
昌徳宮誕生の歴史的背景
この昌徳宮誕生の歴史的背景として興味深い記事が、昌徳宮の日本語パンフレットに載っています。
朝鮮開国後、規模の大きい正宮・景福宮が創建されたのに、太宗(3代王)が新しいこの宮殿を建てた理由は景福宮の地形が良くなかったからだと言われますが、実質的な理由は他にあったようです。二度にかけた『王子の乱』で政敵であった鄭道傳と異母兄弟を殺して王位についた太宗としては、その地の現場である景福宮に起居するのがはばかられたはずだというのです。昌徳宮が建てられたことによって朝鮮王朝の宮廷体制は法宮−離宮の両閥体制となりました。
錦川橋
錦川橋(クムチョンギョ)は、王宮の入口にある石橋で141年に造られたました。現在ソウルに残っている最古の石橋で、欄干には橋を守る動物が置かれ、川の中には南側にヘテ(カイチ)、北側に玄亀が置かれています(写真上)。川を伝って入ってくる邪気を防いでいるのだそうです。写真下は、錦川橋越しに見る仁政殿。
仁政殿
仁政殿
仁政殿は、昌徳宮の正殿として王の即位式、臣下たちの挨拶、外国使臣の接見など重要な国家の儀式を行っていた所でした。前方に儀式を行う庭である朝廷があり、後方には階段式庭園がありました。仁政殿は、見かけは2階建てですが、内部は華麗で吹き抜けになっています。床には元々土を焼いて作った伝統磚〈石床)が敷かれていましたが、今はただの床となっています。これは、電燈、カーテン、硝子窓などとともに1908年に西洋式に改造したものだそうです。朝廷を取り囲んだ外行閣には護衛隊の駐屯所と倉庫などを置かれていました。
台形の庭とパク・ジャチョン
仁政殿の外行閣の庭(写真下)は、西側の進善門(写真手前)の方が広く、東側の肅章門(奥に見える門)の方が狭い台形になっています。当時、上王だった太宗(3代王)はこの庭が四角でないとし、仁政殿を再建したパク・ジャチョンを投獄させたことがあったそうです。しかし、肅章門のすぐ後ろに山脈があり、地形を最大限に生かしながら空間を広く使うために台形に作ったものでした。高麗末の内侍であったパク・ジャチョンは朝鮮開国後に宮廷の門をしっかり守ったことで太祖(1代王)の目にとまり、王の警護をしていましたが、後に昌徳宮の建築監督を引き受けるようになり、末には右軍都ハ制府判事の位まで上がったそうです。
   
   
宣政殿・煕政堂
宣政殿
宣政殿は、王が高位職の臣下たちと共に日常業務を執った公式執務室で、地形に合わせて正殿である仁政殿東側に建てられました。朝の朝廷会議、業務報告、国政セミナーなど、各種会議がここで毎日開かれました。文禄・慶長の役と仁祖反正(15代の王である光海君を追い出し、仁祖が16代の王に即位したこと)などの火災で焼失し、1647年に仁王山の麓にあった仁慶宮を壊して、その材木で再建したそうです。ここは、昌徳宮の建物の中で、高価な青瓦を使用し(写真下)、王の執務室であることを象徴しています。
    
    
煕政堂
煕政堂は王が最も多くの時間を過ごした実質的な中心建物だと言える。もともとの執務室である宣政殿がたびたび国葬のための魂殿として使われたので、寝殿であった煕政堂が執務室の機能をするようになった。1917年に火災で焼失したものを1920年に復旧しながら景福宮にあった康寧殿を移して造ったものである

   
大造殿
大造殿
大造殿は、王妃の生活空間でした。元々は大造殿周辺を多くの付属建物が囲んでいたが、その中の興福軒(写真下)は、1910年、最後の御前会議を開いて庚戌國恥(朝鮮が日本の植民地支配下に置かれたこと)が決まった悲劇の現場となったところでした。1917年に原因不明の火災によって焼失しましたが、1920年に景福宮の寝殿だった交泰殿を移して現在の大造殿となりました。移建しながら昌徳宮の状況に合わせて再構成されました。
      
       
芙蓉池と宙合樓
芙蓉池と宙合樓
昌徳宮の庭園である後苑(フウォン)の中で最も中心的な場所が『芙蓉池(プヨンチ)』と『宙合樓 (チュハムヌ)』です。休息だけではなく学問と教育をしていた比較的公開された場所でした。300坪の広さの四角形の池である芙蓉池を中心に多くの建物を建てられました。宙合樓一帯の奎章閣と書香閣などは王室図書館として使用され、暎花堂では王が立ち会う特別な科挙試験も行われました。暎花堂は、東に庭と、西側に芙蓉池と向かい合っており、前後に縁側がある珍しい建物です。芙蓉亭(プヨンジョン)は、休息のために池に足を浸している形で佇み、行事が行われていた暎花堂は池に面し、学問を研磨した宙合樓は高いところから池を見下ろしています。一つ一つの建物もそれぞれ特色があって美しいですが、自然の中にそれぞれの建物が溶け込み、調和をなしながら絶妙な景観を作り出しています。
 
宙合樓は正祖(22代王)が即位した1776年に創建した二階建ての建物です。1階には王室直属図書館である奎章閣が、2階には閲覧室がつくられました。『宙合樓』というのは、『天地宇宙と通じる家』という意味です。高い丘の上にある宙合樓に上がる正門が魚水門で、『魚は水を離れて暮らすことができない』という故事から統治者はいつも民のことを考えなさいという教訓がこめられた門で、正祖の民本政治哲学を見せてくれています。大きい門ひとつと左右に小さな門が二つある姿も独特です。
  
  
【参考文献】
・本ページの説明文は、昌徳宮の入場の際にもらった日本語パンフレット冊子から引用して書きました。    
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