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旅行記 ・三千院 − 京都市大原 2017.07
 おおはら
大原
大原の赤紫蘇畑
大原のしそ(紫蘇) 大原は、日本一のしそ(紫蘇)。大原の地形や気候などがその栽培に適していますしその品種は、先祖伝来の色・味・香りの良いちりめん種を守り育てています。主に伝統のしば漬けや梅干しなどの材料として用います。大原で栽培される『ちりめん赤しそ』は、しその原品種に最も近く、色・香り・味とも最高級であるといわれているそうです。
大原の風景
大原(おおはら) 大原は京都市左京区北東部の、比叡山の北西麓、高野川上流部に位置します。京都市内からバスで約1時間ほど離れた、静かなる山里と呼ぶにふさわしい場所です。大原盆地は四方を山に囲まれており、高野川に沿って若狭街道(現在の小浜市から若狭町三宅を経由して京都市左京区の現出町商店街に至る街道)が通っています。多くの天台宗系寺院が建立さ
志野松門(お食事処)
平安時代から大原は平安京と若狭湾を結ぶ若狭街道の中継地点として栄えました。また、比叡山の北西麓にあることから延暦寺の影響が強く、勝林院・来迎院・三千院・寂光院など多くの天台宗系寺院が建立されました。三千院があるため、元々観光客が訪れる地域でしたが、1965年(昭和40年)に重唱団のデューク・エイセスが歌った歌謡曲『女ひとり』で大原の名が一層全国に知られるようになりました。
『大原女の小径』の道標
大原女(おはらめ) 大原女は、大原の薪(まき)や農産物を頭にのせて、京の町まで行商に行った大原の女性、販女(ひさめ)のことです。その歴史は古く、鎌倉期から昭和初期まで約800年も続いた大原の習俗で、昭和に入ったころからゆるやかに減少し、1945年以降急速に減少したといわれます。
大原女をかたどった人形
その風俗は、島田髷に手拭を被り、薪を頭上に載せ、鉄漿(おはぐろ)をつけ、紺の筒袖で白はばきを前で合わせ、二本鼻緒の草鞋を履いていました。大原では毎年5月に、無形文化、風俗保存活動の一環として『大原女まつり』が開催されています。また、『京都市時代祭』では、大原女に扮した女性たちを見ることができます
青しその店、志ば久
呂川沿いの参道 大原バス停から三千院へ向かう呂川沿いの参道は、右手が呂川で、左手に甚五兵衛茶屋(蕎麦やどんぶりもの)、志野松門(お食事処)、味工房志野(ぽん酢とドレッシング)、品川茶屋(京野菜うどん、焼きだんご)、山路(手仕事の和雑貨)、志ば久(漬物)などのお店が並びます。
志ば久(漬物)
しば漬 茄子・紫蘇に手塩を振り、樽の中で長期熟成させた自然乳酸発酵の京漬物。赤紫蘇の香りと乳酸菌による酸味が特徴で、『すぐき』、『千枚漬』と並び、京都の三大漬物のひとつとされています。大原が『しば漬』の産地として名高いのは、大原盆地の昼夜の寒暖の差が大きく 香り豊かな良質の『紫蘇』が収穫出来ることによります。
『梶井三千院門跡』の石柱
梶井三千院門跡 呂川沿いの参道を土産物店を観ながらゆっくりと歩くこと20分ほどで『梶井三千院門跡』の石柱が目に入ってきます。三千院は、大原の里にある天台宗の寺院で、三千院門跡ともいいます。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄です。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられています。
三千院門前通り
さんぜんいん 
三千院 
御殿門
御殿門(ごてんもん) 三千院の玄関口である御殿門は、高い石垣に囲まれた、城門を思わせる構えとなっています。その石組みは城廓の石積み技術などで名高い近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)という石工が積んだもので、自然石を使った石組みは頑強でかつ美しく、時を経ても崩れないといわれているそうです。
客殿から見る聚碧園
客殿と聚碧園(しゅうへきえん) 勅使玄関(ちょくしげんかん)から続く書院で、 慶長年間(17世紀初)に建て替えられた旧御所の旧材を用いたもので、大正元年に修補されました。客殿の前の池泉観賞式庭園が聚碧園で、江戸時代の茶人・金森宗和(かなもりそうわ、1584〜1656年)による修築と伝えられています。めて行くことになります。
宸殿
宸殿(しんでん) 宸殿は三千院の最も重要な法要である御懴法講(おせんぼうこう)を執り行うため、御所の紫宸殿を模して、大正15年に建てられました。中の間に伝教大師作と伝わる本尊の薬師如来(薬師瑠璃光如来ともいう)を安置しています。本尊は秘仏となっています。
宸殿
宸殿は、本殿に向かって左の西の間には歴代住職法親王の尊牌が祀られており、向かって右の東の間には天皇陛下をお迎えする玉座が設えてあります。その玉座の間には下村観山の襖絵があり、大きな虹が描かれていることから『虹の間』とも呼ばれています。
宸殿から往生極楽院を見る有清園の眺め
有清園(ゆうせいえん) 有清園は宸殿(しんでん)より往生極楽院(おうじょうごくらくいん)を眺める池泉回遊式庭園で、中国の六朝時代を代表する詩人・謝霊運(しゃれいうん 、385〜433年)の『山水清音有』(山水に清音有り)より命名されました。見事な庭一面の苔の中に、スギ、ヒノキ、ヒバなどの立木が並びます。
有清園(宸殿から往生極楽院へ)
山畔を利用して上部に三段式となった滝を配し、渓谷式に水を流して池泉に注ぐようになっています。宸殿から木立越しに往生極楽院のお堂を見る有清園の眺めや弁天池周りのふさふさとした苔の大海原は、三千院の定番風景となっています。春は山桜と石楠花(シャクナゲ)、夏は新緑、秋は紅葉、そして冬は雪景色と季節毎に趣きを変えます。
有清園(苔と弁天池)
三千院と往生極楽院 三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移りました。『三千院』あるいは『三千院門跡』という寺名は1871年以降使われるようになったものです。
有清園(石仏)
それ以前は、『円融院(円融房)』『円徳院』『梨本門跡』『梶井宮』『梶井門跡』などと呼ばれました。なお、門跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことで、寺格の一つ。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのものを呼ぶようになりました。
往生極楽院
往生極楽院(おうじょうごくらくいん) 三千院の境内には宸殿、客殿などの建物のほかに往生極楽院があります。境内南側の庭園内にある往生極楽院は12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀如来及両脇侍像(阿弥陀三尊像)を安置していますが、三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院でした。
往生極楽院
往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内に取り込まれたものです。元来、天台の門跡とは無関係で、12世紀末に、高松中納言藤原実衡の妻であった真如房尼が、亡き夫の菩提のために建立したものとされています。。
あじさい苑と金色不動堂
あじさい苑と金色不動堂 往生極楽院の東にあじさい苑と金色不動堂があります。あじさい苑には数千株のあじさいが植えられており、6月中旬の小あじさいに始まり、山あじさいや額あじさいなど順番に咲くあじさいを7月まで楽しむことができます。金色不動堂は護摩祈祷を行う祈願道場として、平成元年(1989年)4月に建立されました。
わらべ地蔵
わらべ地蔵 三千院を紹介している旅行誌によく写真が載せられているのが、小さなアニメチックな子供のお地蔵さん。『わらべ地蔵』いう名で呼ばれいて、三千院の人気の一つになってます。往生極楽院前の苔の大海原の中で遊んでいますが、小さいので、知らないで訪ねたら、見落としかねません。
寝そべるわらべ地蔵
寝そべっているわらべ地蔵、寄り添うわらべ地蔵、手を合わせるわらべ地蔵など、思いのポーズで佇んでいて、どれも可愛くって表情豊かです。どのわらべ地蔵も苔むしていて、三千院の苔の大海原とよくマッチしているので、ずっと昔から置かれていたように感じますが、意外にも平成になってから置かれたものだそうです。
寄り添うわらべ地蔵
これらのわらべ地蔵は、静岡県藤枝市在住の石彫家・杉村孝氏の作品だそうです。杉村孝氏は、1937年に静岡県藤枝市の石材店の三男に生まれましたが、小学校時代に右目を失明します。師と仰ぐ彫刻家と出会い彫刻家を志します。三千院を訪ねられたら、お見落としのないようにわらべ地蔵たちとご対面して下さい。
手を合わせるわらべ地蔵
【参考にしたサイト】
(1)天台宗京都大原三千院公式サイト
(2)三千院 - Wikipedia

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