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旅行記 ・今帰仁城跡 − 沖縄県今帰仁村 2012.05
 
今帰仁(なきじん)城跡(世界遺産)
三山時代、北山(ほくざん)王の居城だった今帰仁(なきじん)城跡
北山(ほくざん)王国 今帰仁(なきじん)城は、現沖縄県国頭郡今帰仁村にあった城で、三山時代の北山(ほくざん)王国の国王の居城でした。別名を北山城(ほくざんじょう)といいました。那覇空港から国道58号線を利用して車で約50分。沖縄本島の南から3分の一ほどの所にある読谷(よみたん)村を過ぎれて、恩納(おんな)村に入れば、万座毛(まんざもう)は万座ビーチを見下ろす絶好の景勝地です。
 
今帰仁城入口付近の石垣
恩納村に入ったあたりから以北をやんばる(山原)と呼びます。沖縄本島の中南部地域が、隆起珊瑚礁からなる低い丘陵地で、明確な山は存在せず、川がほとんどないのに比べ、やんばるは低いながらも山並みが続き、多くの河川があります。沖縄本島のやんばると鹿児島県の与論島と沖永良部島を含む領域が北山王国の支配域でした。
今帰仁城の石垣は『野面積み』という比較的古い積み方で積まれています。
今帰仁城 外周約1500m、高さ6〜10mの堅牢な城壁に囲まれた今帰仁城は、標高約100mに位置し、やんばる(山原)の地を守る要の城で、その大きさは首里城に匹敵するといわれる。城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多く出土し、往時の繁栄がうかがわれるといわれています。
『平郎門』(へいろうもん)と呼ばれる今帰仁城の正門。左右に『狭間』(はざま)が見えます。
攀安知(はんあんち)王時代に中山軍に滅ぼされて琉球王国が成立してからは、監守が派遣されるようになり、1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを執り行う場所として残されました。2000年に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録(登録名称は今帰仁城跡)。
内部から見た『平郎門』。狭間は門番が外を見張るためののぞき窓になっています。
平郎門(へいろうもん) 『平郎門』と呼ばれる今帰仁城の正門は、石垣と石垣に挟まれた上に大きな1枚岩が載っている門で、座喜味(ざきみ)城跡や中城(なかぐすく)城跡に見られるアーチ門に比べて特徴的です。左右には狭間(はざま)があり、門番が外を見張るためののぞき窓になっています。
『七五三(しちごさん)の階段』と呼ばれる直線の階段
七五三(しちごさん)の階段 平郎門をくぐると、大庭(うーみゃー)まで真っ直ぐのびる七五三形式の階段参道になっています。この参道は戦前に地元民によって桜の植栽とともに整備されたものだそうです。
階段を上がりきると、『大庭』(ウーミヤ)と呼ばれる広い場所に出ます。
大庭(ウーミヤ)『七五三の階段』を上がりきると『大庭』と呼ばれる広い場所に出ます。 政治・宗教儀式が行われていたと考えられる場所です。大庭を取り囲むように、正面には正殿(主郭)、右側に南殿、北側の一段高いところに北殿跡があったと考えられています。
大庭の一角に建てられている『志慶真乙樽』(しじまうとぅだる)の歌碑
志慶真乙樽(しけまおとたる) 今から700年ほど前、乙樽という絶世の美女がいて今帰仁城主に見初められ側室になります。王妃との間に子がなかった城主は老齢になってやっと子を授かりますが、その子を見ることもなく死んで行きました。王子は千代松と名づけられましたが、臣下が反乱を起こし、乙樽も王妃も必死の思いで城から逃げ出しますが、産後間もない王妃は逃げ切れず、王妃は乙樽に子をたくし、志慶真川に身を投じて命を絶ちました。乙樽は残された千代松をわが子のようにかわいがり、立派に育てあげます。やがて千代松は丘春(おかはる)と名を改め、かつての臣下とともに敵をうちます。乙樽は忠誠と慈愛の証として神人(かみんちゅ)という職を与えられたと伝えられているそうです。『志慶真乙樽の歌碑』が大庭の一角に建てられています。
主郭(主殿)跡。しっかりした礎石が残っています。
主郭 大庭の東、一段高くなっている場所が主郭(主殿、俗称本丸)です。ここにはしっかりした礎石が残っていて、
往時建物があったことがうかがわれます。1982年から4年間行われた発掘調査の結果、13世紀終り頃から17世紀初め頃まで機能していたことが分かったそうです。
主郭跡にある火神の祠(ほこら)と石碑。
右手奥には火の神を祭った祠(ほこら)があり、その傍らに石碑があります。これは『山北今帰仁監守来歴碑記』で、北山滅亡以来、中山(後の琉球王国)から派遣された歴代の監守の名前が記されています。監守引き上げ以降は火神の祠(ひのかんのほこら)が設置され、祭祀(さいし)を行う場として利用されていたと考えられています。
『御内原』(ウーチバル)からの眺め。『大隅』(ウーシミ)の石垣と青い海が見える 。 
御内原(ウーチバル) 北側の高台(主郭の左側端)は御内原といい、かつて女官部屋があった所だといわれています。城内でももっとも尊いと言われるテンチジアマチジという御嶽(うたき)があります。御内原に立つと、眼下に大隅(ウーシミ)が一望でき、その向こうには本部半島北端から海に向かう眺望が開けています。
『御内原』から見下ろす『大隅』の城壁
大隅(ウーシミ) 大隅から馬の骨や歯が大量に発見されたので、大隅は馬場か馬の飼育場所として使われたところだと考えられています。
主郭から見下ろす『志慶真門郭』(しじまじょうかく)と城壁
志慶真門郭(しじまじょうかく) 城跡の南側の、主郭より一段低いところにあります。今帰仁城の裏門にあたり、戦略上重要な所であったと思われています。城の裏門にあたる志慶真門を守るこの場所から武家屋敷跡が発掘されています。
主郭から『志慶真門郭』(しじまじょうかく)へ下りる道。
主郭の右手奥の道を下って行くと志慶真門郭に出ます。今帰仁城の東側は志慶真川の深い谷になっており、これが天然の要害をなしています。そんなやんばるの地形と相まって、城壁は”万里の長城”を彷彿とさせるようです。
『志慶真門郭』から見上げる主郭の城壁
〔今帰仁城跡へのアクセス〕 沖縄本島の南端と北端のちょうど中央より少し北寄りのところに本部(もとぶ)半島が東シナ海に大きく突き出しています。その西先端には著名な観光地の一つである沖縄美ら海水族館(ちゅらうみすいぞくかん)があります。
『志慶真門郭』(しじまじょうかく)の屋敷跡
その本部(もとぶ)半島の付けに当たるのやんばるの中心都市・名護市で、那覇空港から国道58号線を利用して約2時間15分、那覇空港から那覇ICより高速道路を利用すれば約1時間30分の位置にあります。
『志慶真門郭』から見上げる主郭の城壁
沖縄美ら海水族館は、名護市から国道84号および国道505号を利用していきますが、海水族館の4〜5km手前の国道505号沿いに今帰仁城跡はあります。1時間半位あれば見れます。ご興味がありましたら、海水族館の帰りにいかがでしょうか。入場料は、大人400円 小中高300円 小学生以下無料。
今帰仁城跡城を入口正面から見た風景
 レポート ・グスクと沖縄の歴史
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