旅行記  ・長崎の石橋群 − 長崎市  



長崎市は石橋の街、日本の石橋文化発祥の地といわれます。長崎市内を流れる中島川には、今から370年前の1634(寛永11)年に最初の石橋である眼鏡橋が唐の僧・黙子如定(もくすにょじょう)によって架けられて以来、17世紀末までに中島川と直交する道路筋のほとんどに石橋が架けられ、全長が5.8kmに満たない小さな川に、かつては19の橋が架けられていたそうです。連続する石橋群は、周囲の山々とあいまって、独自の風光明媚な風景を形作っているばかりでなく、長崎の町の発展の基軸となって貢献してきました。それらの石橋群は、下の写真の説明文にあるように、洪水による崩流滅失と再架の繰り返しの歴史でした。昭和57(1982)年の長崎大水害で、眼鏡橋ほか2橋が一部崩壊し、6橋が流失しました。眼鏡橋は昭和58(1983)年10月に、桃谷橋と袋橋は昭和60(1985)年1月に復元されましたが、今でもあちこちで改修工事が続けられています。

                                                               (旅した日 2005年02月)



中島川石橋群

眼鏡橋のそばには、焼き物の石橋群案内図(写真上)が設置してあります。魚市橋は、現在工事中のため写真を撮れませんでした。また、眼鏡橋の下流に架かっている袋橋も現在補修工事中でした。

眼鏡橋
眼鏡橋(写真左・下/国の重要文化財)
寺町にある興福寺の二代目住職だった唐僧・黙子如定(もくすにょじょう)という人が、興福寺の門前橋として寛永(1634)に架けた橋と伝えられている橋で、日本最古の石造りアーチ橋と言われています。昭和35(1960)年に国の重要文化財に指定されました。長さは22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46mあります。 昭和57(1982)年の長崎大水害で一部崩壊しましたが、その後原形に復元されました。この眼鏡橋と桃渓橋と袋橋だけが本物の石橋です(本物の石橋)。
川の中央部に支柱を建てて2連にした石橋は、川面に映った影が双円形を描くこと(写真右)から「めがね橋」と呼ばれていましたが、明治15(1882)年、正式に眼鏡橋と命名されました。2連にしたことによって太鼓橋といわれる山のような橋にならずにすんでいます。中島川に架かる多くの石橋の中で、この橋だけが2連なのは、門前橋として架設されたからでしょうか。
袋橋と東新橋
袋橋(ふくろばし/写真左)
日本最古の眼鏡橋の下流にあり、架設年月は不明のようです。眼鏡橋についで古いとの説もあります。たびたびの洪水でも流出を免れ、眼鏡橋、桃渓橋と共に袋橋は本物の石橋です(本物の石橋)。
東新橋(ひがししんばし/写真右)
寛文13(1673)年に架設されましたが、享保6(1721)年の洪水で流失。その後、寛政12(1800)年に長崎奉行所によって再架設されましたが、昭和57(1982)年の長崎大水害で流失したため昭和61(1986)年、昭和の石橋として架設されました(コンクリート造り)。
すすき原橋と一覧橋
すすき原橋(すすきわらばし/写真左)
延宝9年(1681)に架けられましたが、享保6年(1721)の洪水で流失。その後文化元(1804)年に長崎奉行所によって架けられました。昭和57(1982)年の長崎大水害で全壊したため、昭和61(1986)年に、昭和の石橋として架設されました(コンクリート造り)
一覧橋(いちらんばし/写真左)
明暦3(1657)年に、高一覧(こういちらん)によって架設されましたが、享保6(1721)年の洪水で流失。高一覧は、中国人高寿覚の子で、深見久兵衛と称して唐通事(中国語の通訳)を勤めた人でした。享和元(1801)年に長崎奉行所によって再架設されましたが、昭和57(1982)年の長崎大水害でまたもや全壊。昭和61(1986)年、昭和の石橋として架設されました(コンクリート造り)
古町橋と編笠橋
古町橋(ふるまちばし/写真左)
元禄10(1697)年、河村甚右衛門の母、妙了尼の私財によって架設されましたが、寛政7(1795)年の大洪水で流失。その後、享和3(1803)年長崎奉行所によって再架設されましたが、昭和57(1982)年の長崎大水害でまたもや全壊しました。昭和61(1986)年、昭和の石橋として架設されました(コンクリート造り)
編笠橋(あみがさばし/写真右)
元禄12(1699)年、岸村夫妻によって架設されましたが、寛政7(1795)年の大洪水で流失。その後、享和2(1802)年長崎奉行所によって再架設されましたが、昭和57(1982)年の長崎大水害でまたもや全壊しました。昭和61(1986)年、昭和の石橋として架設されました(コンクリート造り)
古町橋と編笠橋
大井手橋(おおいでばし/写真左)
元禄11(1698)年に、岡正敏によって架設されましたが、享保6年(1721)の大洪水で流失。その後、文化元年(1804)年に長崎奉行所によって再架設されましたが、昭和57(1982)年の長崎大水害でまたも全壊しました。昭和61(1986)年に、鉄筋コンクリート造りで架設されました(コンクリート造り)。
桃渓橋(ももたにばし/写真右)
延宝7(1679)年、僧卜意(ぼくい)の募財によって架けられた石造りアーチ。側(そば)に卜意地蔵とよばれる小さな地蔵堂があります。橋の名前は、河畔にたくさんの桃の木があったことに由来するそうです。 昭和57(1982)年の長崎大水害で一部崩壊しましたが、その後原形に復元されました。この橋と眼鏡橋、袋橋だけが本物の石橋です(本物の石橋)



【備考】
写真の説明文は、現地の石橋の観光案内板(焼き物)などを参考にして書きました。

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