♪メヌエット(パーセル)
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旅行記 ・三川内の風景 − 長崎県佐世保市  2009.05.02
 藩窯の里 三川内
嘉久正窯
有田焼で知られる窯業の町、佐賀県有田町の中心街から国道35号線を南西へ進むこと10数km、長崎県佐世保市三川内(みかわうち)皿山は、藩窯のふるさとです。
 嘉久正窯
 嘉久正窯
毎年5月の連休、有田町の表通りに4kmにわたって店々が立ち並ぶ有田陶器市の期間、三川内では、風情のある皿山の町並みを味わいながら窯元を巡る『はまぜん祭り』が開かれます。
窯元への路地
約100万の人出があるという有田町の有田陶器市の賑わいからすると、三川内の『はまぜん祭り』は、知る人ぞ知る陶器市といえるでしょう。
『はまぜん』とは焼き物を焼くとき起きるひずみを防ぐために焼き物の下に敷かれる皿のことで、一回しか使えないものです。このはまぜんの供養も兼ね、三川内の各窯元で行われる陶器市が、『はまぜん祭り』です。
泰平や
豊臣秀吉が起こした朝鮮の役の際、各地の大名は秀吉の命により、競って朝鮮の陶工を連れ帰りました。26代平戸藩主であった松浦鎮信(しげのぶ)は、巨関(こせき)という陶工を連れ帰り、帰化させて今村姓を名乗らせ、平戸島中野村(現平戸市)で窯入れさせました。これが平戸焼、すなわち三川内焼の始まりだといわれます。
唐子絵柄(平戸松山窯)
中野村に陶土がなくなったため、息子の今村三之丞とともに陶土を求めて藩内を転々とした巨関が、寛永14年(1637年)、最後に行き着いたのが三川内でした。その後の慶安3年(1650年)、平戸藩によって、中野村の陶工が三川内に移されました。
弥治右エ門窯
三之丞の子の弥次兵衛正景は、天草陶石と佐世保の針尾島の網代(あじろ)陶石を用いて焼成に成功し、純白の白さを誇る三川内焼の白磁を完成させました。三川内焼は、藩窯としての手厚い庇護のもとで、採算を考えずにひたすら高級品を作り続けた歴史があり、その高い技術は今に引き継がれています。
ふれあい
白磁に呉須(ごす)と呼ばれる藍色の染料で図柄が描かれる『染め付け』、飾り香炉などの美術品を繊細な彫刻で仕上げる『透かし彫り』、透き通るような薄さを身上とする『薄胎(はくたい)』など、いずれも長い歴史のなかで培われてきたものです。
洸祥窯
洸祥窯
洸祥窯
唐子の人数によって、朝廷や将軍家の献上品(7人唐子)や藩公の用品又は諸大名への贈り物(5人唐子)、また武士用(3人唐子)として、区別されていたそうです。
松の木の下で無心に蝶とたわむれる唐の子供が描かれた『唐子絵』は、三川内焼を代表する絵柄であり、江戸時代には平戸藩御用窯の指定図柄とされ、三川内山以外の窯では焼くことができませんでした。
『はまぜん祭り』ののぼり
三川内では、現在14の窯元を伝統工芸の歴史を受け継いでおり、5月連休の『ままぜん祭り』のほか、展示即売する恒例秋の三川内陶器市が毎月10月初旬に、三川内焼伝統産業会館前の広場で行われています。
晴峰窯
晴峰窯
呉須の染め付け、透かし彫り、あるいは透き通る薄胎の凛とした磁器肌と対照的に、三川内の新緑の緑のなんて柔らかなことでしょうか。そんな町並みを歩きながら、藩窯の伝統を引き継ぐ焼物を鑑賞できる楽しみがあります。
甍を引き締める武者のぼり
【参考にしたサイト】
[1]フリー百科事典ウィキペディア 三川内焼
[2]三川内焼の歴史
[3]SIGHT-SASEBO on LINE 三川内焼
 三川内焼のはまぜん祭りに立ち寄って
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