♪ソナチネ(ディアベリ)
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旅行記 ・倉敷美観地区 − 岡山県倉敷市  2010.08
 
 倉敷の朝
午前8時の倉敷美観地区、勤めに出る人。
今日も暑くなりそう! 露店の準備。
天領として栄えた倉敷でしたが、明治維新後は米と綿の単なる集積地と化し、発展から取り残されていきます。その暗い状況から脱却しようと大原氏を中心に相談がなされ、明治21年(1888年)に、代官所後に倉敷紡績(クラボウ)が創業されました。以来、倉敷紡績の隆盛が倉敷の発展に、そして倉敷メセナ(社会貢献の一環として行う芸術文化支援)に寄与していくことになります(1)
倉敷の歴史
倉敷川を中心とする倉敷一帯は中世までは海の中でしたが、戦国時代末期から干拓による田地の開発が進め、慶長5年(1600年)には備中国奉行領となり、松山藩の玄関港として物資の輸送中継地となります。そして、寛永19年(1642年)には『天領』(幕府直轄地)となり、代官所が置かれました。当時の倉敷川は潮の干満を利用して多くの船が航行し、川沿いには、塗屋造りの町家や白壁土蔵造りを中心とする町並みが形成されていきました。
商売の前には犬の散歩が欠かせません。
水打ちが一日の始まり(中橋の南、倉敷川畔東側の町並み)。 
 
中橋
中橋と倉敷館(観光案内所)
たもとに倉敷館や倉敷考古館などが建ち並ぶ『中橋』あたりが美観地区の中心部になっています。特徴のある倉敷館は旧倉敷町舎でした。記念写真を撮る人などで賑わっていました。
中橋と倉敷考古館(正面)。人々と共に鳩も出勤です。
         
川下り
船頭の竿さばきで倉敷川を下る『天領丸』
河畔の柳並木に、白壁なまこ壁の蔵屋敷と瓦屋根、そして編み笠。川下りは倉敷美観地区によく似合う風景です。ときには、『瀬戸の花嫁川船流し』に遭遇できます。
白無垢の花嫁を乗せて、『瀬戸の花嫁川船流』
                     
     
 白壁の町並み
中橋の南、倉敷川畔西側の町並み(写真上)。
倉敷一陽窯の付近(写真上)
 また、1930年(昭和5年)に建てられた日本最初の西洋美術館大原美術館や1888年(明治21年)に代官所跡地に建てられた旧倉敷紡績工場の建物を改修・再利用した観光施設倉敷アイビースクエア等も当地区を代表する建築物となっています。
国の伝統的建造物群保存地  
江戸時代初期に江戸幕府の直轄地『天領』に定められて発展した歴史を持つ倉敷は、倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残しており、1979年に『国の重要伝統的建造物保存地区』に選定されました。
倉敷民芸館(写真上・下)
『倉敷民芸店』は、倉敷の代表的な米倉を改装したものです(写真上)。
                     
 
 倉敷アイビースクエア
倉紡記念館(写真上)
倉敷 アイビースクエア(写真上)
児島虎次郎
現在の岡山県高梁市に生れた児島虎次郎は、明治34年(1901年)絵画を学ぶため東京に出、翌年、東京美術学校(現在の東京芸術大学に入学。入学後、大原孫三郎が開設した大原奨学会の奨学生となります。児島は、4年課程を2年で卒業するという非常なまじめな学生だったそうです。
倉敷アイビースクエアは旧倉敷工場の跡地を活用して建設された施設であり、江戸時代は倉敷代官所の一部があった場所です。赤煉瓦の外壁を覆う蔦や館内の建物等から工場時代の様子が伺われ、『近代化産業遺産』にも指定されています。また、倉敷国際ホテルや倉紡記念館、大原美術館はいずれもクラボウ・クラレ及び創業者の大原家が関係している施設です(2)
  児島虎次郎記念館(写真上) 
オルゴールミュゼ(ショップ)の裏手にある教会。
                    
大原美術館
大原美術館
喫茶エル・グレコ
 大原美術館に隣接した『喫茶エル・グレコ』(cafe EL GRECO)は、50年以上の歴史を持つ喫茶店です。元々は、大原美術館の設立者である大原孫三郎の事務所として大正末期に建てられたもので、先代の『エル・グレコ』の経営者が、大原家に訪れる貴賓の接待などで出入りしていた縁で大原総一郎(孫三郎の長男)の勧めを受けその事務所を喫茶店に改装しました。喫茶店の名前は、大原美術館に展示されている絵画『受胎告知』の作者エル・グレコの名に由来します。今では建物の外壁の全面を覆い尽くしているアイビー(蔦)が美観地区のなかに四季の彩りを添えています(3)(写真下)。 
児島虎次郎は、大原孫三郎の紹介で、石井十次の『岡山孤児院』に泊り込んで『なさけの庭』という絵を描きました。この絵が、東京府主催勧業博覧会美術展で一等賞を取り、おまけに、皇后陛下の目にとまり、宮内庁お買い上げとなりました。大原は大喜びし、児島に5年間のヨーロッパ留学をプレゼントします。その後児島は、日本の若い絵描きのために絵画の蒐集を孫三郎に頼みます。孫三郎は迷った末に許可を与え、モネ、エル・グレコ、ミレー等、世界の名画が次々に収集されました。児島虎次郎が47歳でなくなると、大原孫三郎は翌年の昭和5年(1930年に)、児島の絵と児島が収集した名画を保存展示するための美術館大原美術館を建設しました。
大原美術館ミュージアムショップ内から見た光景(写真上)
喫茶『エル・グレコ』(左手前)。隣りはきびだんごの『廣榮堂本店』。
【参考にしたサイト】
(1)歴史/倉敷を知りたい/倉敷観光ウェブサイト
  
(2)ウィキペディア〜倉敷紡績   
(3)cafe EL GRECO
                              
    ⇒ レポート ・石井十次と大原孫三郎と児島虎次郎
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