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旅行記 ・下甑島〜カノコユリの咲く頃 − 鹿児島県薩摩川内市 2018.07.25
鳥ノ巣山展望台
工事中の藺牟田瀬戸架橋
鳥ノ巣山展望所  鳥ノ巣山(とりのすやま)展望所は、下甑島の北端に位置し、藺牟田瀬戸(いむたせと)の海峡を挟んで中甑島を展望できます。また、澄み切った朝は、遠く薩摩半島を突き抜け、開聞岳を望むことができる風光明媚な場所です。周辺には自然が溢(あふ)れていて、6〜7月にはニシノハマカンゾウが見ごろ迎えます。
『鳥ノ巣山展望台』の標識
さらに、7〜8月には甘い香りを漂わせる美しい薄紅色のカノコユリが見ごろを迎え、コバルトブルーの海の色とのマッチを見せる素晴らしロケーションです。そして今、中甑島との間に全長1,533メートルの藺牟田瀬戸架橋が故事中です。上甑島と中甑島と下甑島の3島を結ぶ『夢の架け橋』で、2020年の完成を目指しています。
鳥ノ巣山灯台(カノコユリ灯台)
カノコユリ灯台 沖藺牟田瀬戸往来する船や、鹿島港に出入りする船のために、昭和46年(1971年)に建てられ、船舶の重要な航海の目標として使われています。また、この灯台に併設の照射灯は、北東方約 300メートルのヘタノ瀬を照らし船が浅瀬に乗り上げないように照らし注意を喚起しています。
周辺はカノコユリの自生地です
 
よはぎまるやまこうえん
夜萩円山公園
夜萩円山公園から眺める鹿島断崖
夜萩円山公園(よはぎまるやまこうえん) 下甑島北端の円崎岬にある標高165mの円山にある公園で大迫力の鹿島断崖を望む最高のビューポイント。東シナ海に面する下甑島の北端西側に位置する鹿島断崖は高さ100〜200m級の断崖が南に約16kmにわたって続く、白亜紀から形成される地層が横縞模様をむき出しにしてそびえ立つます。
夜萩円山公園への階段
ウミネコ繁殖の南限地 この鹿島断崖にはウミネコの営巣地がありウミネコ繁殖の南限地と知られています。4月〜6月、東シナ海の波に洗われてできた独特の形から御物瀬、池屋崎、人形瀬、鶴穴など呼ばれる奇岩、大岩が点在する豪壮な景観の中を群をなしてウミネコが飛ぶさまはまた幻想的です。
工事中の藺牟田瀬戸架橋望めます
うちかわうちしゅうらく
内川内集落
内川内への道すがら峠から眺める長浜港
内川内集落 内川内は下甑島の最高峰・尾岳(標高604m)の西斜面、海抜300〜400mに位置する秘境。現在23世帯33名が農作業を営んで静かに生活をしています。高齢化率は84%を超えます。18世紀はじめに、同じ下甑内にある瀬々野浦から6戸が移住し、その後24戸がさらに移住したのが内川内の始まりといわれています。
甑かのこゆりバスの内川内バス停
ここにはまだ昭和の時代が流れています。なぜこの秘境の地に移住したかについては、当時鹿島との境界線争いがあり、地先の浜を確保するため瀬々野浦の次男・三男を分家させたとする説や西の海が遥かかなたまで見晴らせる山の斜面に移住し、海から敵が来る場合に備えて見張りをしたのではないかとする説などがあるそうです。
内川内集落の家並み
写真にあるように、集落の大きさに比べて立派な待合所のあるバス停があります。下甑島には『甑かのこゆりバス』というコミュニティバスが運行されています。内川内の人たちは長浜港〜瀬々串浦を一日に4〜5往復するコミュニバスをできます。待合所のあるバス停はコミュニバス利用頻度の高さを物語っているようです。
峠からの眺望
せびかんのんみたき
瀬尾観音三滝
瀬尾滝(上段の滝)
瀬尾滝 「瀬尾の観音三滝の水は諸人万人の薬水」とうたわれた。この滝は、55メートルの高所から三段に落下し祠堂には聖観音像を安置しているところから観音三滝とも呼ばれ、昔から地元の人たちに親しまれてきました。また、瀬尾崎一帯は国の天然記念物に指定されているヘゴの群落があります(現地案内板より)。
瀬尾滝(下段の滝)
 
ナポレオン岩
ナポレオン岩(前の平展望台より見る)
ナポレオン岩 瀬々野浦集落の沖合の海上に突き出た高さ 127mの奇岩で、横から見た形がフランスの皇帝・ナポレオンに似ているところから『ナポレオン岩』という愛称で呼ばれるようになり、下甑島のシンボル的存在となっています。瀬々野浦の漁港からも見ることが出来ますが、オススメは『前の平展望所』からの眺望。
ナポレオン岩(瀬々野浦の港より見る)
瀬々野浦 瀬々野浦は下甑島の南北のちょうど中央あたりの西海岸にある集落です。フェリーと高速船が着く東海岸の長浜港から県道350号線で島を横断すること20分。人口は平成28年現在で100人を割り込んでいます(西山地区コミュニティ協議会だより平成28年7月増刊号より)。合併により、薩摩川内市下甑町大字瀬々野浦になりました。
瀬々野浦漁港通り
瀬々野浦の地名は既に江戸時代から記録に残されていて、2004年(平成16年)には町村合併により、薩摩川内市下甑町大字瀬々野浦になりました。瀬々野浦には1880年(明治13年)に設立された小学校(西山小学校)もありましたが、2013年(平成25年)に閉校となりました。
瀬々野浦漁港
瀬々野浦は平家の落人の集落だともいわれていて、平家の落人が瀬々野浦に漂着した際に舟8艘を隠したといわれる八艘穴や、平家の落人三家が瀬々野浦集落に落ち延びて生きた証として頂上の岩を3つに割ったと伝えられる奇岩など、平家の落人伝説が伝えられています。
瀬々野浦集落
カノコユリ(鹿の子百合)
鳥ノ巣山灯台とカノコユリ
カノコユリ(鹿の子百合) 文字通り、花弁に鹿の子模様の斑点があることからそう呼ばれます。土用の頃を中心に花が盛りとなることからでしょう、別名を『土用百合』とも呼ぶそうです。分布は、九州(主に薩摩半島から長崎県沿岸)や四国(愛媛県や徳島県の山間部)、台湾北部、中国・江西省に自生しており、九州でもっとも自生密度が高いのが甑島列島です。
夜萩円山公園へいく道路で
江戸時代にオランダ商館付医師として日本にやってきたシーボルトは日本固有の植物をたくさん持ち帰りました。その中にカノコユリが含まれていて、持ち帰った球根から見事なユリの花を咲かせてみせて、ヨーロッパの人々を驚かしたそうです。カノコユリの花の色や花弁が反り返る形がヨーロッパ人の好みに合致し絶賛されたそうです。
前の平展望所で
カノコユリには、自生地により甑島型、長崎型、高知型などがあるそうですが、甑島原生種は、花弁が大きく反り返るのが特徴で、芳香があります。甑島では、江戸時代と明治時代に大飢饉が起きた際には、ユリ根を食べて餓死を凌ぎ、戦後は、中華料理の材料や観賞用として球根輸出が再開されて、村民の暮らしと経済を立て直したそうです。
片野浦の道路で
片野浦
片野浦港で釣りを楽しむ人たち
片野浦 下甑島の南西部に位置している片野浦は、手打中心部より車で7分、長浜港より車で20〜25分のところに位置しています。平成28年4月現在で、世帯数93世帯、人口139人(薩摩川内市市民活動情報サイトより)。子岳小学校がありましたが、2011年度末で閉校し手打小学校に統合されました。
片野浦港の風景
片野浦港では、一足早い帰省の家族でしょうか、魚釣りを楽しむ光景に遭遇しました。また、片野浦港に迫るむき出しの崖では、白亜紀(約1億4500万年前から6600万年前)の姫浦層群A層と言われる地層に属する暗灰色の泥岩と淡褐色の砂岩の互層が間近で見られます。
片野浦港の地層
みっちり百合草原 漁港のすぐ北側は斜面全体が草原になっていて、咲き始めたニシノハマカンゾウが見られるもののカノコユリはまだのようです(写真下)。この斜面は『みっちり百合草原』と呼ばれ、遅咲きのニシノハマカンゾウとカノコユリのコラボが例年8月末から9月頃見られる場所だそうです。
みっちり百合草原
高い壁の家屋 海が近く山に囲まれた片野浦は、その複雑な地形から海陸風や山谷風など、季節にかかわらず強い風に悩まされてきました。家屋は風の影響を最小限にとどめるためほぼ例外なく平屋で、強風への対策として堅固なブロックの防風壁を設けています。平屋を高い壁で囲んでいるため道路からは屋根瓦しか見えない風景が多くみられます。
片野浦の家並み
つりかけさきとうだい
釣掛崎灯台
ハマユウと釣掛埼灯台
釣掛崎灯台 甑島列島の下甑島最南端の釣掛埼にあるこの灯台は、 明治27、28年(1894、95年)の戦役により、わが国の領有となった台湾の統治・開発上、航路を整備する必要から、奄美大島の曽津高埼、沖縄の伊江島などの灯台とともに建設された、いわゆる台湾航路灯台の一つで、明治29年(1996年)に最初の明かりを灯しました。
カノコユリと釣掛崎灯台
当時の灯台は、空襲で大破しましたが、昭和26年(1951年)に現在の灯台に再建されました。昔は灯台守が勤務していて、家族の住む官舎が併設されていました。子供たちは灯台から片道数キロある学校に歩いて通っていました。もちtろん今はもう灯台守は勤務していません。 
カノコユリと青い海
 キリシタン殉教地
釣掛崎断崖の標識とキリシタン殉教地
キリシタン殉教地 この釣掛崎は古老の伝承によると聖フランシスコザビエル以来弾圧の厳しい江戸時代にはいっても手打青瀬地区ではキリスト教の信仰は守られていたが1638年(寛永15年)ころキリスト教信者は捕らえられ処刑されたと言われている。この釣掛崎は名も知れず殉教していった人々が眠っているところです(碑文より)。
キリシタン殉教地の碑
孤島の野犬像
孤島の野犬像
昭和38年(1963年)、椋鳩十(むく・はとじゅう、1905〜1987年)先生の書かれた「孤島の野犬」が出版されました。その本の中には、「王者の座」「消えた野犬」「丘の野犬」という三つの児童文学作品がおさめられています。これらの作品には甑島にすんでいた野犬が登場しています。
『孤島の野犬』文学碑
椋先生は、私たちの下甑村を何年にもわたって訪れ、野犬についての話を聞いたことをもとにして、この物語を書かれました。この感動的な名作が生まれたことを記念して「孤島の野犬」像を、原田茂先生に依頼して制作して頂きました。この像の建立について、椋先生のご遺族の同意を得ましたことを感謝申し上げます。平成十一年四月 下甑村教育員会。以上文学記念碑(写真上)より。
孤島の野犬像
武家屋敷通り
武家屋敷の近くの煉瓦敷きの通り
武家屋敷通り(麓) 薩摩藩は、鶴丸城(鹿児島市)を本城とし、領地を外城(とじょう)とよばれる113の行政区画に分けて統治し、武士団を領地内に分散して統治に当たらせました。麓(ふもと)集落と呼ばれるミニ城下町が形成されました。その中心に地頭の居館である地頭仮屋が置かれ、ここで外城の行政が行われました。
武家門構えの下甑郷土館
地頭は寛永(1624年〜1645年)以降は鹿児島城下へ定住するようになりましたが、要衝地である甑島などでは地頭の赴任が継続して行われました。丸い石を丹念に積み上げた玉石垣の武家屋敷跡は、江戸時代の郷士たちの家が建ち並んでいた当時の風情を今に伝えています。
武家屋敷通り
下甑郷土館 昭和57年(1982年)に、武家屋敷の町並みが続く旧道のなかほどに建設された資料館で、展示室には先人達が使用していた日常の生活用具や農林漁業の作業用具、古美術点など1200点余りが陳列されており、この地域の歴史的文化を知ることができます。
武家屋敷通り
   下甑の風景
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