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旅行記 ・北野天満宮 − 京都市 2015.03
北野天満宮
一の鳥居
ちょうど梅が見頃の2015年3月12日(木)、京都でも一番の梅の名所『北野天満宮』に参詣しました。京都駅から市バスを使いましたが、春休みに入ったからでしょうか、それに外人観光客が多いからでしょうか、京都駅のバス乗り場はどの路線も長蛇の列です。500円で『一日乗車券カード』を買えば、一日何回でも乗り放題できるのも利用客を多くしている一因かも知れません。
 
楼門へ向かう参道
北野天満宮 北野天満宮は、菅原道真公(菅公)を祀った神社の宗祀(総本社)で、親しみを込め『北野の天神さま』と呼ばれています。福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、現在、全国各地にはおよそ一万二千社あるといわれる菅公を祀る神社の多くが北野天満宮から御霊分けされています。
楼門
北野天満宮の歴史(1) 延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次ぎました。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられました。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈りました。
楼門と梅
天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣がありました。それに基づいて、天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営されました。
宝物殿前の梅
後に、藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言います。永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から『北野天満宮天神』の称が贈られました。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈され、以降も朝廷から厚い崇敬を受けました。
宝物殿前の梅
中世になっても、菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けました。しかし、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルから文安元年(1444年)に室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退します(文安の麹騒動)。天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行されました。
中門(三光門)(重要文化財)
境内西側に史跡『御土居』があります。江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られました。1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに『北野神社』と改名します。戦後の神道国家管理を脱したあと、旧称の北野天満宮の呼称が復活しました。(以上、歴史については、Wikipediaより転載)。
中門(三光門)の梅
社殿について(2) 北野天満宮の社殿は昔から、朝廷及び将軍家がその造営修繕に当たられました。国宝の指定を受ける現在の本殿は慶長12年(1607年)、豊臣秀頼公が造営されたもので、この時作られた中門、東門、絵馬堂、神楽殿、校倉なども現存しています。また、この社殿造営は、父秀吉公の遺志であったと伝えられます。
中門(三光門)の梅
古来、神社祭祀は庭上で行われて来ましたので、壮大な殿内で祭典を執行し得る現社殿の出現は神社建築史上画期的なものであったと言えます。八棟造と称され、総面積約五百坪の雄大な桧皮葺屋根を戴くその威容は、造営当時そのままに絢爛豪華な桃山文化を今に伝えています。(以上、北野天満宮の公式サイトから引用)
中門(三光門)の梅
本殿は、慶長12年(1607年)に建立。入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を『石の間』で接続して1棟とする、権現造社殿です。拝殿の左右に『楽の間』が接続して複雑な屋根構成となっています。屋根はすべて檜皮葺き。本殿、石の間、拝殿、楽の間を合わせて1棟としていて、国宝に指定されています(1)
中門(三光門)の梅
菅原道真(2) 菅原道真公は、幼少の頃より学業に励み、情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなど優れた才能の持ち主でした。学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ねられた菅公は、昌泰二年(899)右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括されます。
社殿(国宝)
ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰四年(901年)大宰権帥に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じられました。菅公の清らかで誠実な人柄と晩年の不遇はさまざまな伝説を生み、やがては天神さまと崇められ、現代でも盛んな信仰へと展開します。
社殿(国宝)
菅公の精神は、『和魂漢才』の四文字に集約されるように、自国の歴史と文化にしっかりとした誇りを持ち、他国の文化も受けいれる寛容さが特徴です。菅公が生涯一貫された『誠の心』は、今も日本人の心に生きつづけています。以上、北野天満宮公式ホームページの『菅原道真公について』より。
社殿(国宝)
絵馬所 北野天満宮の本殿を始めとする主要な社殿は、慶長十二年(1607年)に再建されたもので、その後、元禄十三年(1700年)から翌年にかけて大修理が行われました。現在の絵馬所は、元禄の大修理の際に建てられたものです。建築当初は、現在の位置より北に、棟を南北に通して建ち、屋根も当初は木の板で葺いた木賊葺(とくさぶき)でした。
絵馬所
屋根も現在は桟瓦葺になっています。この絵馬所は、規模が大きく、京都に現存する絵馬堂の中で最も古いものであり、江戸時代中期の絵馬堂の遺構として貴重です。 昭和58年6月1日 京都市指定有形文化財。以上、京都市の案内板(写真上)より。三十六歌仙の額が掛かり、参詣者の休憩所にもなっています。
絵馬堂に掲げられた額
天神信仰と牛(3) 大宰府天満宮にも牛の像がありますが、北野天満宮にも境内に数頭の牛像があります。ウィキペディアにつぎのようにあります。菅原道真と牛との関係は深く道真の出生年は丑年である。大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った。道真は牛に乗り大宰府へ下った。
楼門手前の『撫で牛』
道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した。牛が刺客から道真を守った。道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた。など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ、臥牛の像が決まって置かれている。
中門(三光門)手前の『撫で牛』
境内の牛の像が横たわっている理由(4) 延喜三年(903年)大宰府で生涯を閉じた菅公の御遺骸を運んでいる途中、 車を引く牛が座り込んで動かなくなったため、近習達が已む無くその付近の寺院、安楽時に埋葬しました。 この故事により、境内各所にある神牛の像は臥牛(横たわった牛)の姿となっています。
 
宝物殿の臥牛
北野天満宮と梅(1)(2) 『東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな』(菅原道真、拾遺和歌集)。北野天満宮や菅原道真は、梅および牛との関係が深い。道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に上記の和歌を詠んだことや、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという飛梅伝説ができたことから梅が神紋となっています。
梅苑
北野天満宮の約2万坪の境内には、50種約1,500本の縁の梅が植えられています。早咲きの梅は、例年12月中旬頃からつぼみがふくらみ始め正月明けに冬至梅・照水梅・寒紅梅等が寒さの中、春を告げるかのように咲き始め境内一円馥郁な香りで包まれます。梅苑は、例年2月初旬に公開。 2月下旬から3月中旬までが最も美しい時期となります。
梅苑
梅苑には、和魂梅(わこんばい)・黒梅(こくばい)・緋の司(ひのつかさ)等の珍種も多く3月下句まで公開されます。入園料は、大人600円。これには、京都の老舗の和菓子屋『老松』(おいまつ)のお茶菓子とお茶付きです(写真下)。菅原道真公の祥月命日にあたる2月25日には、遺徳を偲び『梅花祭』が行われ、芸舞妓さんが総出で、野点茶会の席も設けられるそうです。)
梅苑の茶店の茶菓子
【参考にしたサイト】
(1)北野天満宮 - Wikipedia
(2)北野天満宮【公式サイト】KITANO TENMANGU
(3)天神信仰 - Wikipedia
(4)北野天満宮七不思議(北野天満宮公式サイト)
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