旅行記  ・咸宜園(かんぎえん)の教育 − 大分県日田市   

咸宜園(かんぎえん)
 
 江戸後期の日田の儒学者・教育者、廣瀬淡窓(1782〜1856年)が開いた私塾。開塾から明治30年の閉塾までに全国からの入門者は延べ約4,800人を数える。数々の個性的な教育で知られ、蘭学者・高野長英や兵学者・大村益次郎など、歴史に足跡を残した人物を輩出。昭和7年に国指定の史跡に。シンプルな造りに当時の純粋な学究心がしのばれます。                  (旅した日 2003年3月)

【史跡咸宜園跡】
 文化十四年、廣瀬淡窓が私塾を開き、以来旭荘、青村、林外と相続いて子弟を教授した所である。県道を挟んで西側には、もと考槃楼、西塾などを置き、東側には、もと秋風庵、心遠処、遠思楼、東塾、講堂などを設け、総称して咸宜園といった。いま、旧時の遺構としては秋風庵である。一庵は、東西八間半、南北三間半、草葺二階建てである。天明元年淡窓の伯父月化の建てたものであり、秋風庵と称している。安政三年淡窓はこの庵で死去した。秋風庵の外、主要建物は遺存していないが、敷地の境界も明らかで、よく往時の形態をしのぶことができ、学術上遺跡として価値あるところである。
          昭和四十五年一月 日田市 (現地案内板の文をそのまま引用)
 秋風庵(解体修理を行い江戸末期の姿に復元)
 
 咸宜園の「咸宜(かんぎ)」は、中国の「詩経」の玄鳥よりとった言葉で、「みなよろしい」という意味で、身分、年齢、学歴に関係なくだれでも入門できました。



廣瀬淡窓
(1782〜1856年)


  − JR日田駅の待合室に掲げてある「敬天」のことば −
 淡窓は天明2年(1782)、天領時代に掛屋(金融業)を営んだ日田の有力な商家・廣瀬家の長男として生まれました。 7歳の時、父親から素読教育を受け、近隣の学者や僧侶から指導を受けました。幼いころから神童といわれ、15歳になったとき、福岡の有名な学者亀井昭陽に学びます。やがて病気になり、家に戻って療養にいそしんでいましたが、本を手離さなかったそうです。二十四歳のときに、家業を弟の久兵衛にゆずり、生家を出て豆田町の長福寺の学寮を借りて私塾を開きました。2年後の26歳のとき、 豆田浦町に桂林荘を新築しますが、次第に評判を呼び、手狭となったので10年後、堀田村に咸宜園を開きました。
豆田町にある廣瀬宗家




休道の詩


 『遠く故郷を離れて他郷の空に勉学する身には、辛いこと苦しいことも多い。でも、そのことを口にするのは止めよう。志を同じくする親友同士、親しみ合い励まし合って学問修養につとめているではないか。暁に起きて、柴の扉を開いて外に出れば、霜が雪のように降りている。さあ、朝の自炊だ。君は前の川で水を汲んでくれ、僕は林で薪(たきぎ)を拾ってくる』
【注釈】 日田は水郷の町です。水は扉の前を流れる川で汲めますが、薪を拾うにはわざわざ林まで出かける難儀があります。薪は自分が拾ってくるからと云っているのです。                            

詩碑(大正8年建立)
 中国の大家・李白や杜甫の漢詩が並んでいる中学校教科書のなかで、日本人の作った漢詩の代表として、この「休道の詩」が掲載されているようです。他郷で勉学に勤(いそ)しむ若者の心情や志し・姿勢が、清らかに淡々と詠われていると思います。



淡窓の教育 

入門簿
「咸宜園」に入門すると、住所・氏名・年齢・紹介者(保証人)を入門簿に記入します。

三奪法(さんだつほう)
 入門者は三奪法と言って、身分・年齢・学歴の三つを奪って、みな月担評の最下級である級外に入れられました。あらゆる条件を剥奪(はくだつ)し、人間平等の精神を重んじて学問に当たらせました。そして、門人たちがもつべき思想は、「天を敬う以外にない」という「敬天」の思想が教育の基本であったようです。これは、淡窓が人為的なものより自然の法則を尊ぶという老荘思想(老子と荘子の思想)を重んじていたことによるようです。 

〔右の言葉は、「咸宜園いろは歌」の「す」の項に書かれている言葉です。「休道の詩」と並んで、咸宜園の教育の考え方を物語る有名な言葉です。個性を生かし、その人に合った教育が追求されました。〕 
                                                       

 秋風庵(上) 淡窓の伯父で俳人の廣瀬月化が天明元年(1781年)に別家して建てた居宅でした。芭蕉翁の「あかあかと日はつれなく秋の風」という句にちなんで秋風庵と名づけられました。

遠思楼(下) 淡窓67歳のときに建てられた。2階(3畳・4.5畳)は書斎、階下は書庫として晩年淡窓が好んで使った建物。門弟と国事を論じたりしました。

月担評(げったんひょう)
 月旦評という成績表をつくって、勤怠を明らかにし、咸宜園に入ると勉強する心が自然に生まれるようにしました。月旦評では、1級から最上級の9級まで階級があり、さらに各級が上下に別れていました。級外が最下級ですので、全部で19階級ありました。級を昇進するためには試業(試験)に合格しなければなりません。毎月、書・詩・文・句読についての試験が9回あり、これに課業の成績が加えられ、合格点に達すると翌月初めに張り出される月担評で昇進していきます。はじめは、課業(素読・輪読・聴講・輪講)、試業(会読・質問)の得点によって進級させられていましたが、後に「消権の制」が設けられました。消権とは、生徒一人一人について行われる先生直接の試験です。独見とも云われました。課業・試業の得点により一応進級しても「真」の進級とはならず、肩書きに「権」の文字が付く仮進級です。消権の試験を通過すると「権」の文字が消え、はじめて「真」の進級になる制度でした。教科の中心は、儒学(四書五経)ですが、上級になると老子など諸子の学を学びました。

任制
 塾生には、上は都講(師範代)から下は宿直・日直まで、全員をなんらかの職につかせ責任を持たせて塾の仕事を担務させ(職任制)、塾は自治的な組織により運営されました。
     

−咸宜園の出身者で有名な人−
 高野長英(蘭学者)、大村益次郎(明治の兵制を確立)、長三州(文部大拯・明治の学制に貢献)、上野彦馬(日本写真術の開祖)
 清浦奎吾(総理大臣)、横田国臣(大審院長、現在の最高裁判長官)、松田道之(東京府知事)


【参考】本ページの作成において、下記を参考にしました。
 @「史跡 咸宜園跡」パンフレット(咸宜園の受付で頂いたもの)−所在地 〒877-0012 大分県日田市淡窓2-2-13 TEL(0973)22-0268
 Aいいまちおおいた−kangien(咸宜園) : http://www.oita.isp.ntt-west.co.jp/emati/tema/ijin/hirose/kangien.html
 B童門冬ニの歴史街道散歩・豊後の三賢めぐり(上) : http://furusato.at-m.or.jp/com/A001/domon0110.html
 C咸宜園 : http://www.oavc-unet.ocn.ne.jp/users/sozai/kangien/kangien.htm など。
 

あなたは累計
人目の訪問者です。
 
Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.