旅行記      ・沖縄(2)− 平和を考える
 亜熱帯気候にはぐくまれた自然と独自の琉球王国文化、レジャー・観光などの他に、沖縄にはもう一つの側面として、沖縄戦の歴史と米軍基地問題があります。今回の沖縄訪問は、沖縄戦跡と米軍基地について実際に見聞きし、平和を考える旅でした。
                                                  (旅した日 2002年12月)   
ひめゆり学徒隊
 沖縄戦は、90日余の死闘で、日米双方に20万余の犠牲者を出し、その12万人が沖縄住民だったと言われています。米軍進攻に備える沖縄守備軍は、県下女子中等学校の生徒らに看護訓練を強化し、米軍が上陸すると、ただちに学徒隊を編成して、戦場に駆り立てました。1945年(昭和20年)3月23日深夜、沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の寮生全員と自宅通学生の222名と職員18名が、南風原(はえばる)陸軍病院に配置されました。生徒らは、ただ祖国の勝利を信じて、砲煙弾雨の中、身の危険も顧みず、負傷兵の看護や医療器具・薬品、食料や水の運搬などに献身的に協力しました。5月25日、日本軍は南部に敗走し、南風原陸軍病院や各地の野戦病院も南部へ撤退しました。そして、すでに壊滅状態になっていた日本軍は、6月18日、喜屋武半島の戦場の真っただ中で、学徒隊に解散命令を下しました。6月19日には、第三外科壕にガス弾が打ち込まれました。生き残った学徒も行き場を無くし、6月21日荒崎海岸で多くが死亡しました。米軍包囲網の中で、投降を許さず年端も行かない生徒らを地獄の戦場に放り出したこの解散命令が、学徒隊の犠牲を悲惨なものにしたのです。学徒・職員あわせて219名の尊い命が失われました。


南風原陸軍病院・第二外科壕(20号壕)跡
 米軍が上陸する前に、陸軍病院は南風原の黄金森一帯に掘られていた30余りの壕へと移動しました。これらの陸軍病院跡は、戦争の悲惨さを伝える証として文化財に指定され、重症患者が収容されていた20号壕(第ニ外科壕群)と、はじめはひめゆり学徒隊の待機所で、その後病室になった24号壕(第一外科壕群)が公開に向けて準備中とのことです。今回、その20号壕に入ることができました。

 黄金森には今、近代的な陸上競技場ができています。20号壕跡は、その陸上競技場の向って右手300mぐらいのところにあります。20号壕へは、農道から潅木(かんぼく)の生い茂る小道へ入り150mくらい歩きます。
 今では、壕の底には泥が堆積していて、入口は人がかがんでやっと通れるくらいでした。黄金森一帯の壕は、自然のガマと違って、人手による手堀りの壕です。掘ったのみの跡や朽ちた坑木が残っています。学徒隊は、この壕の中で負傷兵の看護をしたのです。

ひめゆりの塔と平和記念資料館
「ひめゆりの塔」は、犠牲になった「ひめゆり学徒隊」の遺骨を祀った慰霊塔で、ガス弾が打ち込まれた第三外科壕の上に建てられています。
 「平和記念資料館」は、1989年に「ひめゆりの塔」に隣接して建てられた資料館で、5つの展示室からなり、200余名の犠牲者の遺影や遺品、資料などが展示されています。
 「ひめゆり」の由来は、沖縄県立第一高等女学校の校友会誌「乙姫」と沖縄県女子師範学校の校友会誌「白百合」の両方の名前の一部をとって、「ひめゆり」(姫百合)を使うようになったのだそうです。植物の花の「ひめゆり」とは関係ないそうです。
「平和記念資料館」のスタンプ
黄金森公園陸上競技場(南風原町)
20号壕への道
20号壕の入口
20号壕の内部
 学徒隊は、この壕の中で負傷兵の看護を
したのです。
沖縄県平和祈念資料館
平和の礎(いしじ)
沖縄戦・年表
【3/23】ひめゆり学徒、南風原陸軍病院へ動員。【3/26】米機動隊が慶良間諸島に上陸。島民集団自決。【4/1】沖縄本島の中部西海岸(北谷・読谷地区)に米軍上陸。【5/23】米軍が那覇市に進攻。【5/25】陸軍病院、南部へ撤退。【5/27】軍司令部、首里を撤退。喜屋武半島の摩文仁地区に司令部を移す。【6/18】学徒隊に解散命令。【6/19】第三外科壕にガス弾打ち込まれる。【6/21】荒崎海岸で多くの学徒死亡。【6/22】軍司令官牛島満中将、参謀長長勇中将が自決。【7/2】米軍、沖縄作戦終了宣言。

沖縄県南部の地図

摩文仁
沖縄県平和祈念資料館
 沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに沖縄の人々のこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するための「沖縄県平和祈念資料館」が、2000年4月1日、糸満市摩文仁の平和祈念公園内にリニューアルオープンしました。第1展示室〜第4展示室まで展示室があり、「沖縄戦への道」、「戦場の住民」、「証言の部屋」、「収容所から」をテーマにそれぞれ資料が展示されています。

平和の礎(いしじ)
 沖縄の「平和のこころ」を広く内外に伝えようと、1995年に沖縄戦終結50年を記念して、国籍、軍人、非軍人を問わず、沖縄戦で亡くなった20万余のすべての人々の氏名を刻んだ刻銘碑「平和の礎」が、摩文仁丘に建てられました。平和の広場を中心にして、放射状に円弧の形で拡がりをもって配置されています。外国、県外、県内のゾーン別に、県外は北海道から南へ都道府県別に、沖縄県は国頭村から南へ市町村別に順に刻銘されています。


 沖縄では、11月〜12月は、修学旅行生の多い時期のようです。訪問した当日も、平和祈念公園には多くの修学旅行生が見学に訪れていて、資料館の入口は満員の込み具合でした。課題が出されているのでしょう。館内では、筆とノートを片手にした生徒達が真剣な面持ちで展示物に見入っていました。


【参考資料】本ページを作成するに当たって、下記の資料及びサイトを参考にさせて頂きました。
 (1)ひめゆり同窓会「ひめゆり平和祈念資料館パンフレット」(資料館で頂いたもの)。
 (2)沖縄県「沖縄県平和祈念資料館パンフレット」(資料館で頂いたもの)。
 (3)沖縄県「平和の礎パンフレット」(沖縄県平和祈念資料館で頂いたもの)
 (4)「南風原陸軍病院跡」に関するサイト http://okiraku.cside.com/haebaru.htm 
 (5)「沖縄と戦争」に関するサイト http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/p12-2.htm#1