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旅行記 ・ヴェネツィア ドゥカーレ宮殿 − イタリア(3) 2014.07
ドゥカーレ宮殿
(Palazzo Ducale)
ドゥカーレ宮殿
ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale) イタリア語でドゥカーレ(Ducale)は、公爵の、総督の、を意味し、Palazzoは館、宮殿(英語のpalaceに相当)を意味します。したがって、ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿は、ヴェネツィア共和国時代に総督(ドージェ)の住居兼最高司法府だったところで、歴史上の重要な決定はすべてこの宮殿で行なわれました。
ドゥカーレ宮殿から東に延びるジュデッカ運河街
ヴェネツィアの玄関口、サン・マルコ広場の、ジュデッカ運河に面したところにあり、白とピンクの大理石で飾られた壁面とゴシック風のアーチが連続した外観は、イスラム建築の影響も見られ、細やかな装飾に豪奢な造りとなっています。8世紀に創建され、14世紀(1309年)〜16世紀にかけて現在の形に改修されました。
ため息橋
ため息橋(Ponte dei Sospiri ) パラッツォ・オ・テ・カノーニカ川という運河にかけられた、ドゥカーレ宮殿(左手)の尋問室と古い牢獄(右手)を結んでいる橋です。白の大理石で造られた橋で、覆(おお)いがあり、石でできた格子窓が付けられています。尋問室で取り調べを受けて独房に入る囚人が、この橋を通るとき、ヴェネツィアの美しい景色を見られるのもこれが最後だとため息をついたということから名づけられた名前で、ドゥカーレ宮殿の海側にあるバリア橋(Ponte.Paglia)から眺める風景(写真上)がヴェネツィアの観光名所の一つになっています。
ドゥカーレ宮殿を描く人
ヴェネツィア・ゴシック様式の代表建築といわれるドゥカーレ宮殿は、白とピンクの大理石で飾られた壁面と、建物を支えている独特の大小のアーチ列柱が美しいです。ドゥカーレ宮殿のファサード(正面をなす外観のこと)も、それを描く人も、また通行する人たちも美しい風景のなかにあります。
サン・マルコ大聖堂のクーポラを背景にしたドゥカーレ宮殿の中庭
内部に大きな中庭を持ち、それをぐるりと建物が取り囲む形になっていて、南側はジュデッカ運河に、西側はサン・マルコ小広場に面しています。上の写真のように、北側はサン・マルコ大聖堂に隣接していて、中庭から見ると背後にサン・マルコ大聖堂の丸いドーム(イタリア語でクーポラ)が見えます。
 
『巨人の階段』から望む
ヴェネツィア共和国の政治 
ヴェネツィア共和国は、7世紀末期から1797年まで1000年以上の間にわたり、歴史上最も長く続いた共和国で、『最も高貴な国』あるいは『アドリア海の女王』などと呼ばれました。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であったばかりでなく、信教の自由や法の支配が徹底されており、ドージェ(元首、総督)の息子であっても法を犯せば平等に処罰されるほどでした。
 
イタリア半島にあるライバル諸国との対立や他国からの侵入・侵略に絶えず脅かされながらも、共和制から君主政へ移行したり、外国の支配下に置かれたりすることもなく、建国から1797年に至るまでの1000年もの間、共和国国会で選出されるドージェを中心とする共和制を守り抜きました。自然資源も人的資源も持たざる国が、海洋貿易国家としての確固たる地歩を固め、『アドリア海の女王』としてその覇権を長く保持できたのは、その卓越した政治、外交、軍事力によりました。
中庭北面を見る
初期のヴェネツィア共和国ではドージェが独裁的な権限を持っていましたが、後に就任の際に宣誓を求められるようになり、権力は大評議会と共有されることになりました。大評議会の定足数は 480であり、ドージェも大評議会も互いに相手を無視して決定を行うことはできないでした。
  
1310年になると、十人委員会が設立され、後にその影響力は大評議会を凌ぐようになり政府の中枢機関として1797年まで存続しました。公式な任務は、共和国の治安維持、政府転覆および汚職の防止でしたが、組織が小さく迅速な決定が可能であったため、政府の業務全般を取り扱うようになりました。特に、十人委員会は共和国の外交と諜報活動を監督し、軍を管理し、そして奢侈禁止令(贅沢を禁止して倹約を推奨・強制するための法令)を始めとする様々な法律の執行を司ったりしました。
中庭への出入口
密告の口(真実の口)
密告書を受け付ける『密告の口』
密告の口(真実の口) ドゥカーレ宮殿の中庭で見かけた『密告の口』。宮殿の壁に設置してありました。人間の顔をしていますがライオンの顔です。よって、『ライオンの口』ともよばれます。治安機関である十人評議会への密告書を受け付ける投函口になっています。ドゥカーレ宮殿に限らず、各地区にあったようです。まさしく、密告の口は『真実の口』です。
黄金の階段
潜る人に権力を見せつける『黄金の階段』の天井
黄金の階段 中庭からドージェ(元首、総督)の居宅などのあった階へ上がっていきます。『黄金の階段』と呼ばれる階段(写真上)は、共和国時代の高位官や身分の高い貴族専用のもので、24金の金箔と漆喰(しっくい)とフレスコ画に飾られた豪華絢爛なものです。まさに、階段を上がる者を威圧し、ドージェの権力を見せつけるものでした。
天井画
ティントレット作の天井画/The Square Atrium
四角の広間(The Square Atrium) 黄金の階段を上って先ずあるのが四角の広間。主として、この階にあるそれぞれのホール(部屋)へ行くための待合の空間、いわゆる控室としての役目を持っていたところです。天井には、公正と平和の寓話を示唆するジローラモ・プリウリ総督(在任:1559〜1567年)の肖像画がティントレット(Tintoretto)によって描かれています。
天井画/The Four Doors Room
4つの扉の間(The Four Doors Room) この部屋は、この宮殿のさらに重要な部屋へ入るための正式な控室で、部屋の名前の由来になっている4つのドアは、高価な東方の大理石で装飾縁取りされ、政治責任を引き受ける人々を鼓舞する美徳を物語る彫刻群がそれぞれに刻まれています。1574年に起きた火災は、この部屋にも激しいダメージを与えましたが、幸運にも構造は破損されずにすみました。現在の装飾は、アントニオ・ダ・ボンテ(Antonio da Ponte)によるもので、設計は、アンドレーア・パッラーディオ(Andrea Palladio )とアントニオ・ルスコニ(Antonio Rusconi)によります。
『祈りをささげるグリマーニ総督』/The Four Doors Room
ギオバン二・カンビ(Giovanni Cambi)による化粧しっくい細工飾りの格天井は、神学的主題、およびヴェネツィアン統治下の都市および地方のフレスコ画を含んでいます。1578年以降、ヤーコポ・ティントレット(Jacopo Tintoretto)によって描かれた装飾のスキームは、ヴェネツィアの基礎とその独立がヴェネツィアの貴族の歴史的使命と密接に関連していることを示すデザインになっています。壁の絵画中で目立つのは、ティツィアーノ(Titian)の信頼に対して祈りをささげるアントニオ・グリマーニ総督(Antonio Grimani、1521〜1523)の肖像です。画架においては、ティェポロ(Tiepolo)の有名な作品が立っています。1756年と1758年の間に描かれていて、それは、ネプチューン(Neptune)から海の贈り物を受け取るヴェネツィアを示しています。
パオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese)の天井画/Sala del Collegio
元老院の間(Sala del Collegio) 外国の代表団や重要な人物、有名な人物を迎え、総統と6人の評議員で構成された治安裁判所が会見する部屋でした。ホールは、1574年の火災の後に完全に装飾し直され、一新された金泊張りの天井は1578年から1582の間にヴェロネーゼによって手掛けられたものです。ヴェロネーゼは、さらにホールの端壁の王座の上方に巨大なキャンバスを描きました。
上院ホール(Sala del Senato)
上院ホール(Senate Hall、Sala del Senato) ドージェ(元首、総督)が上院メンバーにここで開催される会合に参加してくれるように頼んだので、Sala dei Pregadi(前王座の広間)としても知られていました。この部屋で開かれた上院はヴェネツィアで最も古い公的機関のうちの1つでした。13世紀に設立された後、徐々に発展していき、16世紀までには、製造業、貿易および外交政策の分野における政治的および財務的監視の責任を主体的に負う母体になって行きました。1574年の火災の後の再建は1580年代に始まり、新しい天井が完成すると直ちに絵入りの装飾が始まり、1595年までに完成されたようです。この部屋のティントレット(Tintoretto)の作品は、明らかにキリストが優勢に描かれています。この部屋は、さらにヤコポ・パルマ(Jacopo Palma il Giovane)による4枚の絵画−それは、ヴェネツィアの歴史の特別な出来事と結びついている−を含んでいます。
パオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese)の天井画/Consiglio dei Dieci
十人委員会の間(Consiglio dei Dieci) 外交および諜報活動を監督し、軍を管理し、共和国政府の中枢機関として作用した十人委員会の部屋。天井の装飾は、若きパオロ・ヴェロネーゼとジョヴァンニ・バッティスタ・ゼロッティの助けをかりで、ジャンバッティスタ・ポンチノが手がけた作品です。しかしながら、雷電を浴びせるために雲から降りてくるヨベ(Jove)を描いている、中心にある楕円形の絵画は、戦利品としてナポレオンに持っていかれてしまったため、本物はフランスのルーブル美術館にあります。現在天井にはまっているのは18世紀になってからはめられたヴェロネーゼのコピーです。
パオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese)の画/The Compass Room
羅針盤の間(The Compass Room) 司法行政(裁判)専用のフロアの最初の部屋で、部屋の名前は、部屋の角に置かれている“公正の像”の載った大きな木製のコンパス(羅針盤)に由来します。木製のコンパスは、十人委員会の3人の長官および州調査官の部屋の入口を隠しています。したがって、この部屋は長官に呼び出される人が控える部屋になっています。
羅針盤の間の壁にも『密告の口』(真実の口)が・・・
ここにも、『密告の口』 この羅針盤の間の壁にも、市民からの密告書を受け付ける投函口である『密告の口』(真実の口)があります。『密告の口』は云わば目安箱。1000年もの間にわたって決して独裁を許さなかったヴェネツィア共和国の政治体制の一端を物語っているということができるでしょう。
武器庫
ヴェネツィア共和国の兵器力を彷彿とさせる武器庫
武器庫 ヴェネツィア共和国は、1104年に、軍直属の軍需工場が創られ、軍船の修理を始めました。そして、1320年には軍船や大型商船の造船所となり、最大16,000人が従事し、船のロープ・帆桁などを個別に生産し、一貫作業で1日1隻の造船能力があったといわれいます。
中世の銃
1370年代以降は、銃器も生産され、16世紀には世界における造船・兵器製造の一大拠点となり、1797年のナポレオン支配終了まで繁栄が続きました。剣や鎧(よろい)、拳銃と鉄砲、馬用の鎧など、ヴェネツィア共和国の軍事力を彷彿とさせる武器類がずらっと展示してあります。
中世の機関銃
大評議会の間
大評議会の間(Sala del Maggior Consiglio)
大評議会の間(Sala del Maggior Consiglio) 大議会の間、最高議会の間などともいわれる大広間。全ヴェネツィア貴族の議会として大評議会がつくられたのが1172年のことでした。その大評議会を行うのがこの大広間で、 部屋の大きさは25m×54m×高さ15.4m。柱が一本もない欧州最大級のこの部屋は、1200〜2000人の人を収容できました。
ティントレット『天国』(縦7.45m×横24.65m)
ティントレット『天国』(1588〜1592年) 縦7.45m×横24.65m。『大評議会の間『』に飾られている世界最大級の油絵。1577年、ドゥカーレ宮殿は火事に見舞われ、『大評議会の間』も激しく損傷しました。正面に、14世紀の画家グアリエント作の『聖母戴冠』のフレスコ画が描かれていましたが、これも損害を免れませんでした。
ティントレット『天国』(縦7.45m×横24.65m)
そこで、ヴェネツィア共和国政府は1582年、新たに絵を飾るにあたり、当時のヴェネツィアの一流画家たちを呼び案を募りました。その一種の『コンクール』で選ばれたのは、ヴェロネーゼとバッサーノで、二人の合作ということになりましたが、何故だか、ヴェロネーゼは1588年に没するまで全く手をつけることがありませんでした。
ライオンとともに描かれた聖マルコ
結局、ヴェロネーゼ没後にその栄誉を手にすることになったのがティントレットでした。これだけの大作だけに、制作には息子や工房の手を借りたといわれ、4年の歳月をかけて1594年に完成しました。描かれている人人人・・・。中央にライオンとともに描かれているのは、ヴェネツィアの守護聖人『聖マルコ』です。
パオロ・ヴェロネーゼ遺作『ヴェネツィアの大勝利』(1579〜1582年)
ヴェロネーゼの天井画 ヴェネツィアでは造船も盛んでした。柱が一本もないこの大評議会の間の巨大天井は、船底を逆にしたようなかたちの吊り天井になっているそうです。その造船技術を生かした巨大な吊り天井の中央に、これもまた素晴らしいヴェロネーゼ最後の作品『ヴェネツィアの大勝利』(1579〜1582年)が描かれています。
ため息橋
『ため息橋』をドゥカーレ宮殿側から見る
独房に入る囚人が、橋を通るとき、ヴェネツィアの美しい景色を見られるのもこれが最後だと、ため息をついたという『ため息橋』。内部は、下の写真のように幅の狭い通路になっていて、石でできた格子窓から運河の風景を垣間見ることができます。橋を渡り切るとそこは、金箔張りの豪華なドゥカーレ宮殿とは打って変って、何もない鉛色の独房だけの世界です。
『ため息橋』の内部
カサノヴァの脱獄 ジャコモ・カサノヴァ(Giacomo Casanova、1725年〜1798年)は、ヴェネツィア出身の術策家であり作家。その女性遍歴(自叙伝によれば、生涯に1,000人の女性とベッドを共にしたという)によって広く知られています。1755年、30歳のときに宗教裁判所で有罪を宣告され、『鉛の監獄』と呼ばれていたこのドゥカーレ宮殿の牢獄に収監されます。
石でできた格子窓
実のところは、娘との交際に怒った有力貴族が、カサノヴァのフリーメーソンとの関係を告発したため投獄されたものでした。5年間をここで過ごした後、この最も警戒厳重な監獄からの脱獄に成功しパリに逃亡しました(自らの著書『鉛の監獄と呼ばれるヴェネツィア共和国の牢獄からの我が脱獄物語』がその顛末に詳しいといわれます)。以後、脱獄を成功させた者は誰もいません。
『鉛の監獄』ともよばれた牢屋
巨人の階段
軍神と海神が中庭を見守る『巨人の階段』
巨人の階段 中庭に突き出ていてる大理石の階段は『巨人の階段』という名で知られている階段です。かつて、この階段で新任のドージェ(元首、総督)の即位式が行われていました。両側に軍神マルス(左)と海神ネプチューン(右)の二体の巨人が立って中庭を見守っています。宮廷内を一回り見物して、再び中庭に帰ってきました。
再び中庭より北面を見る。背後はサン・マルコ大聖堂のクーポラ
【参考サイトおよび備考】
(1) ヴェネツィア共和国 - Wikipedia
(2) Palazzo Ducale | Second floor(ドゥカーレ宮殿公式ホームページ)
ヴェネツィア共和国の歴史については、(1)のサイトを参考にしました。また、ドゥカーレ宮殿の各天井画の説明については(2)のサイト(ドゥカーレ宮殿公式ホームページ)の英文の和訳を試みました(和訳が正確でないかもしれませんので必要な場合は原文をご参照ください)。
【備考】
最近までドゥカーレ宮殿の内部は撮影禁止とされていました。したがって、インターネットでも内部の写真を見ることはできませんでしたが、最近撮影解禁となり、先駆けとして本ページ作成と公開になりました。(2014.08.20)
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