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旅行記 ・土居廓中武家屋敷 − 高知県安芸市 2017.04
 のらどけい
野良時計
野良時計
野良時計 それぞれの家にまだ時計のなかった明治の中頃、土地の旧家で地主であった畠中源馬氏が、自分で時計組み立ての技術を身につけ、歯車から分銅まで手づくりで作り上げた時計台。当時畠中家の台所にかかっていた八角形の米国製の掛時計を何度も分解しては組み立てて、時計の構造を学んだといわれています。
野良時計
古くから周辺で農作業をしていた人たちが時間を知ることができ、『野良時計』として土地の人々に親しまれてきました。作製後120年あまり動いていましたが、源馬の孫にあたる畠中秀雄氏が平成16年(2004年)に死去すると管理する者がいなくなったため現在は止まったままです。
野良時計
武家屋敷
(国の重要伝統的建造物群保存地区)
これから武家屋敷
安芸市 安芸市は、県都・高知市から東へ約40キロに位置し、南は土佐湾に面し、北は四国山地を背にする自然に囲まれた県東部の中核都市です。 全国最大級の施設園芸地帯として、ナスなどの環境保全型農業に取り組んでおり、柚子、チリメンジャコの産地となっています。
瓦の練塀のある屋敷と通り
明治時代の野良時計、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された土居廓中の町並み、岩崎弥太郎生家と三菱グループ源流の地、書道・童謡・陶芸のまち、阪神タイガース・大学・高校野球のキャンプなど、歴史と文化の香るまち、スポーツキャンプのまちとして、全国に情報発信しています。(以上、安芸市のホームページより)
長屋門のある屋敷
土居廓中(どいかちゅう) 土居廓中安芸市にある日本風景街道のひとつで、この場合の街道とは特定の道を指す物ではなく、その地域ならではの自然・文化を活かし、景観の向上・地域活性化・観光振興などを行うとりくみのこと。伝統的な武家屋敷を中心として歩くことを主体とした歴史と文化にふれあえる道の創出・再発見をすることを目的としています。
武家屋敷通り
沿道の見所として、野良時計、武家屋敷、岩崎弥太郎生家(三菱グループの創始者の生家で庭には、日本列島を模してつくられたという石組みがある)、弘田龍太郎歌碑、浄貞寺(戦国時代に統治していた安芸氏の菩提寺)、安芸市立書道美術館(全国初の公立書道美術館として1982年10月に開館)などがあります。以上、ウィキペディアより
野村家の『塀重門』
武家屋敷は、土佐藩の家老であった五藤家安芸屋敷などがあり、2012年(平成24年)7月9日に国の重要伝統的建造物群保存地区(武家町)に指定されました。独特の建築様式として、強風多雨から土佐漆喰の壁を守るための『水切り瓦』、土と瓦で造られた『瓦の練塀』や『土用竹を利用した生垣』が多く見られます。土用竹の生垣は、土佐では武家のみに許されていたといわれます。
 野村家
野村家 土居廓中には約40戸の屋敷が残っていますが、その中で最も古いのが『野村家』で、1830年頃に建築されたといわれています。土居廓中の中で唯一、一般公開(無料)されている屋敷です。大きな門をくぐると、玄関横にもう一つ門が構えてあります。これは『塀重門』といって、敵の襲撃を防ぐために設けられている門です。
 野村家
安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区 保存地区は東西約410m、南北約360m、面積は約9.2ヘクタールの範囲。 土居廓中は、戦国期に築かれた安芸城を中心に、江戸時代に大規模な屋敷を構えた土佐藩家老五藤家により形成された武家町で、武家地の町割や道路の形状には近世以降、大きな変化が認められません。
土用竹の生垣の屋敷
土居廓中は近世の町割の骨格を現在に留めており、また江戸末期から昭和戦前期に建てられた主屋や土蔵、蚕室など、伝統的な建造物が良好に残されています。藩政期の武家地特有の歴史的風致を今日によく伝えていると評価され、『国の重要伝統的建造物群保存地区』に選定されました。(以上、安芸市のホームページより)
武家屋敷
 安芸城跡
安芸城跡(外堀)
安芸城 安芸城は鎌倉時代の延慶元年(1308年)に安芸親氏によって築かれたといわれます。安芸氏は、この地方の有力な豪族の1人で、戦国時代には土佐七雄の1人といわれました。しかし、戦国時代の末の永禄12年(1569年)に長宗我部元親に攻められ、激戦の末、落城し安芸氏は滅びます。
安芸城跡(外堀と土塁)
その後30年間長宗我部氏が支配しましたが、慶長6年(1601年)山内一豊に土佐一国を与えられると、重臣の五藤氏に 1,100石を与え安芸周辺に配しました。五藤氏は、居留地として安芸城を選びましたが、元和元年(1615年)の一国一城令により城ではなく『土居』と称しました。
 
藤崎神社(五藤氏の氏社)
すでに存在していた内堀と土塁の内側に屋敷を構え、石垣を築いて枡形と櫓門を整備し、土塁の上に塀を築くなどの改修を行いました。以後、明治時代に至るまで「安芸(安喜)土居」として五藤氏が居住しました。土居の周囲には家臣団の武家屋敷が整えられ、現在も土居廓中として現存しています。
 山内一豊と五藤吉兵衛(現地の説明板より)
 
 弘田龍太郎歌碑
歌碑(叱られて)
弘田龍太郎 1892年(明治25年)高知県安芸市に生まれる。父の転任に従って3歳の時高知を離れ、千葉師範学校附属小学校、三重県立第一中学校を卒業。東京音楽学校器学部ピアノ科に入学。文部省唱歌の『鯉のぼり』は作者不詳とされてきたが、弘田龍太郎が在学中に作曲したものと言われている。東京音楽学校同研究科卒業後も同校授業補助となる。
歌碑(春よ来い) 
宮城道雄や本居長世らの新日本音楽運動に参加。1918年(大正7年)鈴木三重吉によって児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、『赤い鳥運動』に参加、北原白秋等と組み、多くの童謡を作曲した。代表作に『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『金魚の昼寝』『雨』『雀の学校』『春よこい』『靴が鳴る』など多数。他に歌曲『千曲川旅情のうた』など。(参考:弘田龍太郎 - Wikipedia)
歌碑(鯉のぼり)
 
倍賞千恵子/叱られて
 
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