♪Prologue
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長崎『ぶらぶら節』を歩く − 長崎市
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昨年(2004年)2月に、外国人居留地のあった長崎市東山手と南山手の伝統的建造物群保存地区を訪れたとき、帰りの列車まで時間があったので思案橋に行ってみることにしました。丸山は、なかにし礼氏の小説『長崎ぶらぶら節』の舞台になったところだったことを思い出し、JR長崎駅構内の観光案内所でパンフレットを求めたところ、三種類の散策マップを頂きました。小説『長崎ぶらぶら節』は、貧しい家から幼くして花街・丸山に入った実在の名妓・愛八の歌と恋と、そして貧しい少女・お雪をはじめ人々に捧げた無償の愛を描いた第122回直木賞受賞作品です。丸山芸者・愛八は、東京大相撲が開かれたある日、古賀十二郎と出会い一目惚れします。古賀は、裕福だった実家の蓄財を投じて長崎学の確立を目指す研究者でした。その古賀から、『な、おいと一緒に、長崎の古か歌ば探して歩かんね』と誘われ、愛八の胸は、張り裂けんばかりに高鳴ります。古賀の破産を契機に、二人は長崎の古い歌を探し始めます。三年目、小浜の温泉旅館で、忘れられていた名曲『長崎ぶらぶら節』と出会います。ぶらぶら節は、昭和6年(1931年)に、愛八の歌でレコード発売され全国に知られるようになりました。今尚花街の雰囲気が残る丸山の一端をアップロードしました。                                (旅した日 2004年02月)
花月と中の茶屋
料亭・花月(県指定史跡/写真右)


花月は、もとは寛永19年(1642年)に創業した妓楼引田屋で、その庭園内にあった亭(ちん)の名をとって店名としました。当時、オランダ人や唐人たちが丸山見物した際には、必ず花月に立ち寄ったといわれ、またシーボルトや頼山陽、田野村竹田など多くの文人墨客が訪れて、花月の珍奇な風物を賞しました。幕末には、明治維新の志士たちが出入り、大広間に残る刀痕は、坂本竜馬が残したものだといわれています。


小説『長崎ぶらぶら節』の舞台となったところで、丸山芸者愛八と古賀十二郎の歌探しは、ここから始まりました。料亭・花月の公式ホームページがあります。
中の茶屋(市指定史跡/写真右)


丸山の遊女置屋越後屋が、茶屋を設けていたところで、唐人には千歳(せんざいわ)と呼ばれていました。この名に因んで、別名を千代の宿ともいわれ、内外の墨客が好んで遊び親しみ、また長崎奉行の市中巡検の際には、その休憩所にあてられることもあったそうです。庭園は、江戸時代中期に築かれた庭園としては、市内の寺院のものを除けば、数少ない遺跡の一つです。庭園内には、お稲荷さんがあって商売繁盛にご利益があると言われています。






 ♪遊びに行くなら
   
 花月か中の茶屋〜



梅園身代り天満宮
梅園身代り天満宮


丸山町乙名安田治右衛門が二重門(現丸山交番付近)で襲われ左脇腹を槍で刺され倒れました。しかし、自邸に担ぎ込まれましたところ、不思議なことにどこにも傷が無く、その代わりに庭の天神様が血を流して倒れていたそうです。その後、この天神様を身代り天神と呼ぶようになりました。花街に接しているところから遊女や芸者さんも、身代を「みだい」と読み、自分に苦労が無いことを願って多く参拝しました。そのとき、境内にある梅塚(写真左)の中に自分の家で食べた梅干の種を天神様と呼びわざわざ持って来ていたのだそうです。ぶらぶら節の愛八さんもよく参拝していたゆかりの神社です。中の茶屋のすぐ下にあります。


   ♪梅園裏門たヽいて
   
   丸山ぶうらぶら〜
長崎検番と思案橋
長崎検番外観(写真左)
検番とは、芸妓さんたちが所属する置屋を取り締まる事務所です。長崎検番は、元は愛八が所属していた昔の長崎東検番で、最盛期の昭和30年代(1955年代)は、約100名の芸妓さんが所属していたそうです。現在でも、14名の芸妓さんが所属し今なお花街の伝統を守り続けています。芸妓さんの写真が見れます。


思案橋跡(写真下左)
丸山の花街への入口。花街に行こうかどうかと思案し、思い切って橋を渡って行くその思いを表しています。


山の口・丸山二重門跡(写真下右)
丸山は「山」とも呼ばれ、その入口を「山の口」と言い、現在の、丸山町交番(写真下右)付近に二つの大きな門が建っていました。
花街跡と丸山オランダ坂
長崎丸山華街(花街)跡(写真上左右)
長崎丸山華街跡は、江戸時代、丸山遊廓の東端に位置し、背後の石垣は遊廓が塀や石垣で囲まれ隔離されていたことを物語っています。丸山は、長崎開港後の慶長年間(1596〜)初めは、この付近に三軒家と呼ばれる遊女屋が建っていて太夫町と称していました。その後、官命によって改めて丸山を開き、市中の遊廓を1ヶ所に集めたのが寛永19年(1642)、今から360余年前のことです。当時、丸山は江戸の吉原、京の島原と並ぶ日本三大花街「三場所」の一つであり、大変な賑わいであったと言われます。江戸の文学者井原西鶴は、実際長崎へは訪れていませんが、「長崎に丸山といふ所なくば、上方の金銀」無事に帰宅すべし」と唄う程でした。記録によると、延宝時代(1673〜)には、遊女屋74軒、遊女766人、全盛期の元禄時代(1688〜)には、1443人の遊女がいたようです。丸山の特徴として、遊廓には主に長崎の町民や上方の商人たちが多く出入りしていましたが、丸山の遊女が唐人屋敷や阿蘭陀屋敷(出島)の出入を許されいたため、唐人や阿蘭陀人(紅毛人)との交流があったことが他の花街と異なる点です。そのため、遊女を日本行き、唐人行き、阿蘭陀行きとあえて区別していました。この丸山だけは、日本はおろか、海外まで名の知れた国際的な遊里(ゆうり)でした(現地案内板より抜粋)。


丸山オランダ坂(写真左)
長崎にはオランダ坂が数ヶ所存在します。この坂も、阿蘭陀行きの遊女が通ったことからオランダ坂と呼ばれていたようです。
茂木街道
茂木街道(写真上右)
長崎から茂木に至る街道。茂木港から島原、天草へと船出しました。天草が幕府領となると天草を結ぶ重要な道路になりました。


ピントコ坂(写真上左)
旧茂木街道の一部で、唐人何旻徳(オビントク)と丸山遊女の悲恋話が伝説として残っている坂で、「ピントク」が訛(なま)って「ピントコ」坂と呼ばれています。


愛八さんの墓(写真左)
ピントコ坂の近くの見晴らしの良い墓地にある愛八(本名:松尾サダ)さんの墓。昭和8年(1933年)12月30日没。享年60才。長崎の代表的な民謡「ぶらぶら節」と「浜節」をレコードに吹き込み、世に広めた長崎東検番の名妓。


【備考】
■『ぶらぶら節』

昭和6年(1931年)発売、ビクターレコード、歌・東検番愛八(本名:松尾サダ)
長崎民謡の代表曲。丸山遊廓を中心に江戸時代初期から歌われたお座敷歌。長崎の名物や風習が巧みに織り込まれ、歌詞も次々に加えられた。大正の頃は忘れられた状態だったのを、古賀十二朗と愛八が発掘し、全国に知られるようになった。

   
                            − 長崎ぶらぶら節(歌詞) −


     ○長崎名物はた揚げ盆祭り 秋はお諏訪のシャギリで氏子がぶうらぶら ぶらりぶらりというたもんだいちゅう
     ○遊びに行くなら花月か中の茶屋 梅園裏門たたいて丸山ぶうらぶら ぶらりぶらりというたもんだいちゅう
     ○はた揚げするなら金比羅風頭 帰りは一杯機嫌で瓢箪ぶうらぶら ぶらりぶらりというたもんだいちゅう
     ○沖の台場は伊王島四郎ヶ島 入り来る異船はすっぽんすっぽん 大筒小筒を鳴らしたもんだいちゅう
     ○嘉永七年きのえの寅の年 四郎ヶ島見物がてらにオロシャがぶうらぶら ぶらりぶらりというたもんだいちゅう


                                                                 歌を聴く・・・


■小説『長崎ぶらぶら節』
なかにし礼・著/新潮文庫/2003年10月発行/定価\514


※説明文は、現地の観光案内板およびJR長崎駅構内の観光案内所で頂いたパンフレットなどを参考にして書きました。
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