レポート  ・調所広郷と村田清風   
− 調所広郷と村田清風 −

明治維新最大の功労者は誰かという問いに対して、調所広郷と村田清風と答える人がいます。明治維新という国家的大プロジェクトともなれば、いくら志があっても資金がないことにはもとより成功はおぼつかなかったでしょう。
 
しかし、大政奉還(1867年)より40年前の文政10年(1827年)頃の薩摩藩は、藩年収総額10数万両に対して、 500万両(1両を7万円として、 3,500億円)という巨額の借金が累積していました。長州藩も同様で、1831年の時点で、銀8万貫(金にして170万両)の借金を抱えていました。この財政状態では明治維新どころではなかったでしょう。
 
そうした状況の中で短期間に藩財政を建て直し、明治維新に向けての財政的基盤をつくったのが、調所広郷(1776〜1849年)と村田清風(1783〜1855年)でした。調所は、商人に借金の無利子 250年分割払いを押し付け、その交換条件として一部の商人資本に対しては密貿易を優先的に取り扱わせて利益を上げさせました。
 
なお、借金返済は、2085年まで及ぶ分割払いというものでしたが、実際には35年間は返済されたものの、1872年の廃藩置県後に明治政府によって債務の無効が宣言されてしまいました。
 
調所は、琉球を通じて中国との密貿易を拡大させるとともに、砂糖事業を藩の専売制にし、奄美大島や徳之島などの農民から安く買い叩き、高値で売って利益を上げました。また、商品作物の開発を行うなどして財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に 250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復しました。
 
一方、村田清風は、天保14年(1843年)に、家臣団の負債を37年かかって元利完済するという三七ヵ年賦皆済仕法を制定する一方、専売制を廃止して商人による自由な取引を許しました。そのかわり、商人に対して運上銀を課税しました。
 
村田はさらに、白石正一郎や中野半左衛門といった豪商を登用して、越荷方を設置しました。越荷方は、藩が下関で運営する金融兼倉庫業であり、他国船の越荷(他国から越えてきた荷物)を担保に資金を貸し付けたり、越荷を委託販売したりして、利益を得ました。
 
薩摩では、1851年に島津斎彬が第11代藩主に就任すると、調所が築いた財政を基盤にして集成館事業に着手し、現在の鹿児島市磯地区を中心に近代洋式工場群が建設されます。いわゆる、殖産興業時代への突入であり、以後西郷隆盛らが活躍することになります。長州藩では、村田が築いた財政を基盤に、軍備の増強・近代化が図られていき、明治維新へと繋がっていきました。
 
【参考サイト】
[1]フリー百科事典Wikipediaの調所広郷のページ
[2]フリー百科事典Wikipediaの村田清風のページ
 

2010.07.07  
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