レポート  ・戦艦大和 二つの慰霊碑   
− 戦艦大和 二つの慰霊碑 −
 史上最大の戦艦といわれた『戦艦大和』が米軍航空隊の攻撃により撃沈されたのは、1945年(昭和20年)4月7日のことでしたから、昨日(2009年4月7日)は、64周年の命日にあたり、それぞれゆかりの地で追悼式などが催されたようです。
 
鹿児島県内には、二ヶ所に戦艦大和の慰霊碑があります。一つは、徳之島の犬田布岬(いぬたぶみさき)にあり、もう一つは枕崎市の火の神公園平和祈念展望台にあります。今回のレポートは、戦艦大和の沈没位置にまつわる話しです。
 
映画『男たちの大和/YAMATO』(2005年、東映配給)をご覧になった方ならご承知の通り、戦艦大和は、北緯30度43分、東経128度04分、長崎県男女群島女島南方 176km(鹿児島県枕崎市の西南西約 200km)の水深345m の地点に沈没しています。
 
しかし、吉田満氏(元乗組員、故人)の名著『戦艦大和ノ最期』に、・・・・徳之島西方二〇浬ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨體四裂ス・・・・とあるように、戦後長い間、徳之島の犬田布岬の西方沖が戦艦大和の沈没位置と考えられてきました(サンフランシスコ講和条約後に出版された『戦艦大和ノ最期』では、徳之島ノ北西二百浬ノ洋上とされています。1浬(カイリ)は、1,852m )[1][2]
 
徳之島の南西部、東シナ海に向かって三角状に突き出ている犬田布岬は、琉球石灰岩の海触崖と鋭く切り立つ断崖が雄雄しい景観を見せる徳之島一の景勝地です。その岬の、高麗芝が青々と自生したなだらかなスロープの先端に、合掌する人間の手をかたどった高さ24m の慰霊塔が西方沖を向いて建てられています。全国的な募金によって、1968年(昭和43年)に完成したものです。
 
戦艦大和を旗艦とする第二艦隊は、米軍に上陸された沖縄防衛の支援を目的に4月6日の夕刻、山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃しますが、行く先を秘匿(ひとく)するため佐多岬から進路を西へ変え、東シナ海へ航行しました[3]。
 
戦艦大和会を中心に結成された『探索会』によって、戦艦大和の第一次海底探索が行なわれたのが1980年(昭和55年)でした。翌年と翌々年の第二次、第三次探索により沈没地点が断定され、1985年(昭和60年)に、イギリスの潜水艇パイセス二号の協力によって沈没地点が確認されました[4]
 
2001年(平成3年) 枕崎商工会議所は、戦艦大和等の沈没地点の至近距離にある枕崎市の住民として戦艦大和ほかの50周年記念事業に取り組むことを議決し、市内の各種団体長等で組織しする推進協議会も発足し、2005年(平成 7年)に、沈没地点を遠望する市内火の神公園内に平和祈念展望台が建立されました[5]
 
下記の地図で、徳之島西方沖と鹿児島県枕崎市の西南西約 200kmと沖縄との位置関係を確認することができます。戦後長い間、戦艦大和の沈没位置が不正確なまま謎とされていたのにはどういう意味があったのでしょうか?
 
戦艦大和の沈没地(地図)を見る
 
【参考にしたサイトおよび資料】
[1]天號作戰に於ける軍艦大和の戰鬪經過 吉田滿 戰艦大和の最期
[2]「戦艦大和ノ最期」その真実と虚偽
[3]映画『男たちの大和/YAMATO』(2005年、東映配給)
[4][5]枕崎市の火の神公園平和祈念展望台の案内板

 

2009.04.08
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